青空研究室

三ツ野陽介ブログ

文化の「世界化」について〜ダイナミックコリア/クールジャパン

グローバル化と「世界化」

 日本語では「グローバル化」とカタカナ表記しているglobalizationという言葉を、韓国では「世界化(セゲファ세계화)」という漢字語に訳すことが多い。
 グローバル化は、ヒトとモノと情報の地球規模での移動が盛んになって、国家や国境が無意味になっていくことを意味するが、しかし韓国で使われている「世界化」という言葉には、どうもそれとは少し違う、独特のニュアンスが込められているように思う。
 例えば「韓国文化の世界化」「ハングルの世界化」「韓食の世界化」などというふうに、この言葉は使われる。
 「韓国文化の世界化」と言う場合、これは、世界の様々な文化を国内に取り入れて、多様性のある韓国文化を作っていこう、ということを意味しているのではない。そうではなく、韓国文化の素晴らしさを世界中の人に知ってもらおうということ、これが「世界化」の意味である。あくまで国境を維持したうえで、内から外へ打って出ていくという一方通行的なベクトルなのだ。
 だから「韓国文化の世界化」は、インターナショナルというよりは、ナショナリスティックなものだと思う。世界化によって「国家ブランドを高める」といった言い方が韓国でよく為されることからも、それが窺える。(「世界化」は、90年代の金泳三大統領の「世界化政策」以来、よく使われるようになった言葉であるが、そのときの政策の内実は、英語の早期教育などであったようだから、今とはニュアンスが違ったのかもしれない)。

世界化という夢

 僕が韓国で、日本語教師として接した大学生のなかにも、韓国文化を世界に伝えていく官公庁(なんかそういう役所があるらしい)の公務員になりたい、という夢を語る学生が何人もいた。このような意味での「世界化」は、今日の韓国人のひとつの夢なんだなと思った。

 大学院生に研究テーマを聞くと「日本がどうやって国家ブランドを高めていったのかを研究したい」という人もいて、何だか釈然としない気持ちになったこともあった。

日本文化の世界化

 こうやって書いてきた筆致から分かるように、僕はこの「世界化」や「国家ブランド」という概念に対してやや批判的であるわけだけど、しかし日本人も、その一人である僕も、このグローバル化の時代において、「日本文化の世界化」の欲望から逃れられないとは思う。

 周知の通り、最近日本でも「クールジャパン」と銘打って、日本文化を世界に発信していこうということが、政府レベルで重視されるようになってきた。2020年の東京オリンピックもその流れのなかに位置づけられるだろう。

 僕が二年間やっていた、異国で日本語を教えるという仕事も、「日本語の世界化」に貢献するものだったと言えてしまうのだろうし、その雇用は日本の「国家ブランド」によって支えられていたのだろう。アニメなど、日本のポップカルチャーについて韓国の学生たちと話しながら、「日本文化の世界化」によって、僕の自尊心が満たされる部分がまったく無かったなどという嘘はつけないのである。

 もっとも、日本語教育学の学界はリベラル志向が強く、そこでは「日本語の素晴らしさを世界に伝えよう」などというナショナリズムは抑制されているようだ。そもそも日本語教育学は起源において、戦前の植民地教育という「原罪」を背負っている、という認識があるのだと思う。

ブランドとプライド

 オリンピックが東京に決まっても「別にどうでもいい」と言い、日本人がノーベル賞を受賞すれば「別にその人が優れていただけで、日本国民が偉いという話じゃないのに、なんで自分のことみたいに喜ぶの?」と言う人たちがいる。

 そのような感想を持つのは完全に正しい。しかしその感想は、「日本人なのになんで喜ばないの?非国民」という批判が完全に的はずれであるような、日本人ならではの幸せな感想なんだよな、と思う。

 日本の「国家ブランド」がすでに十分に高く、十分に「世界化」されているから、オリンピックが来ようが、ノーベル賞が来ようが、もう別に嬉しくないのだ。

 その「嬉しくなさ」は、実は、恵まれたものなのである。

 「日本人としての誇り」なんていう立派なものを持っている日本人は少ないだろう。でも、「日本人であることが劣等感」という人も、まあいないんじゃなかろうか。

 僕の考えでは、「日本人である劣等感」がないという、そのことだけで、実はその人の自意識は「日本人としての誇り」によって、けっこう支えられてしまっているのだ。

 そして今、日本人が、日本文化の「世界化」を志向するようになっているのだとすれば、それは日本人が以前より恵まれない、不幸な国民になっているからなのかもしれない。