青空研究室

三ツ野陽介ブログ

二年過ごした僕なりの、右でも左でもない韓国観

コメントに答えて

 一ヶ月ほど前に「在日(というかニューカマー)の若者について知っている2、3の事柄」と題して、嫌韓デモのことなどについてエントリーを書いたところ、それから二週間ぐらいして、長文のコメントをつけてくださった読者の方がいました。

 それからまた二週間ほど経ってしまったのですが、遅レスながら、その返信を書いてみようと思います。

 そんなわけで、以下の文章は、当該エントリーと、それについた長文コメントに、ざっとでも目を通したうえで読まれることを、おすすめします。

 さて、

 

 丁寧な書き込みをありがとうございます。
 拙文は個人的で感傷的なエッセイのつもりで書いたもので、それを「個人的かつ感傷的な戯言にすぎない」と批判されれば、確かにその通りですとしか申し上げられません。
 そんな無責任な態度は「研究者」としていかがものかと問われれば、「どうも誤解されている気もしますが、僕の専門は韓国研究じゃないんで」という逃げ口上も言えるのですが、大学院の学歴さらして書いてますから、そういう批判もいちおう甘受すべきなのかもしれませんね。

なぜ自国民以外を税金で援助するのか

 僕は外国人学校への援助について、賛成でも反対でもありません。賛成であるかのように書いた箇所を取り上げて批判されましたが、はっきり言って、よく分からないのです。しかし、その正否についてよく分からないがゆえに現状を追認しているという意味では、どちらかと言えば賛成しているのかもしれませんね。

 世の中には、外国人学校への援助が絶対に正しいと確信して議論を構築している人もいますし、あなた様のように、これは絶対におかしいと確信して論証を構築している人もいます。どちらが正しいのか、非専門家の僕には判断が下せません。

 要は、日本人が納めている日本人のための税金を、外国人に手渡すのはおかしいだろうという主張のようですが、直感的に言えば、その論理は正しいように感じます。

 しかし、日本の税金が外国人のために使われている例は、他にいくらでもあるわけで、ODAのような分かりやすい事例もあります。

 僕にとって身近な例で言えば、僕の所属している東大の比較文学比較文化研究室には、日本の文部科学省から少なくない奨学金をもらっている国費留学生がたくさんいますし、その半分以上が韓国人です(僕は、彼ら彼女らとの交流を通じて、韓国で暮らすずっと前から、韓国の人と関わってきました)。

 同様の制度は、もちろん韓国にもあって、韓国の国費で向こうへ留学している日本人もいるわけです。

 日本にせよ韓国にせよ、就学のためのお金が払えなくて困っている自国民がたくさんいるのに、外国人を援助するのはおかしいだろ?という主張は、直感的に言えば、そんなに間違っていないような気もします。

 しかしそれでも、外国人を援助しようという政治的判断が実際には下されています。それは別に100%の善意から発しているわけではなく、そうやって外国人を援助することが、結局は自国のためになるかもしれない、という判断もあって、やっていることなのでしょう。

 例えば、日本について深い理解を持つ若い世代の外国人を育てることは、今後の日本のためになることかもしれない、というような判断ですね。

 もちろん、今回のケースでは、韓国人子弟が日本の学校教育を受けることを支援するものではなく、彼らが日本にいながら韓国の教育を受けることを支援するもので、「日本を深く理解する若者を育てよう」という国費留学生のケースとは、異なる事例ですね。

 しかし、概念的には確かにそうなんですが、その実態はどうなのかというと、ぶっちゃけ日本の韓国人学校は生徒を「韓国人」として育てようという民族教育にあんまり成功してないじゃん、という僕の実感を件のエントリーで書いたつもりでした。

 その実感を元に、「ただ、それが、日本社会の一員である若者を育てている、東京にある学校の一つだから、日本の税金で支援するのだと考えればいいんじゃないか」と現状を追認するようなことを僕は書いたわけです。この一文が、あなた様からもっとも非難を浴びたわけですが。

自分だけの、自分なりの韓国観

 僕の研究者としての専門は哲学であり、プロフィールに書いている通り、韓国への関心は趣味的なものにすぎません。しかし、短い人生の貴重な二年間を韓国で費やしたわけで、一生の趣味の一つになればいいなとは思っています。

 僕は右派のそれでもなければ、左派のそれでもない、自分だけの、自分なりの韓国観を作ろうとしています。そのとき僕が出発点にしたいのは、個人的な体験、個人的な感傷、個人的なつながりですね。専門ではなく趣味だからこそ、そういうことを根拠に考えられるのです。

 実際に試したわけではないけど、もし僕が在日の教え子に、「いま日本で、韓国学校への国の援助をどうすべきかで論争になってるが、君はどう思う?」って聞いたら、「え、日本の税金から援助金もらってるんすか。くれるもんならもらえばいいけど、別にそんなの要求すべきじゃないんじゃないすか?」なんて、あっけらかんと答えそうな気がします。

 実際に外国人参政権について、「民団が外国人参政権を求めているけど、君はどう思う?」って在日の子に聞いたら、「え、そういう問題があるんですか。韓国人なのに日本の選挙するのは変でしょ」という答えが返ってきて、拍子抜けしたことならあります。

 

 僕が持っている韓国のイメージは、左翼的な韓国観からも、右翼的な韓国観からもズレています。そして、その「右でも左でもない僕なりの韓国観」とやらを語るにあたって、右寄りの人から「おまえ左翼だろ」と批判されたり、左寄りの人から「おまえ右翼だろ」と批判されたりするのは、今後ありそうなことです。今回は前者のケースのようですが、「はてサ」と称される左寄りの方々も、はてなには多いようですし、僕が身構えているのはむしろ左からの非難です。 

 そういう僕なりの立場から言いたかったのは、韓国人学校への援助にせよ、外国人参政権の付与にせよ、「被害者としての韓国」という左翼的イメージから出発して、「差別だ!人権侵害だ!レイシズムだ!」と大きな声をあげて主張している人たちも、「もはや仮想敵国」という右翼的韓国イメージから出発して、「日本人差別だ!敵性国家への利敵行為だ!」と大きな声をあげている人たちも、どちらもおかしいんじゃないか、ということです。

 じゃあ、そうではない「僕なりの実感に基づいた韓国観」から出発すると、こういう政治的な問題について賛成とか反対とかの立場をハッキリ言えるようになるかというと、そんなことはなく、むしろそういう「ハッキリした意見」を拒否しようということだけが、僕がハッキリと言えることなのです。

 ハッキリした意見というものは、個人的な感情、体験、つながりを切り捨てて、はじめて可能になるものですからね。

 自国を批判することと他国を批判すること

 ところで、あなた様のコメントのなかには、他にも論点がありましたね。「日本はこれからも、韓国留学中の在日の子たちが『日本に帰りたい』と思ってしまうような国であり続けるべきだ」という僕の主張に対する批判です。

 この僕の主張は、嫌韓デモで聞くに堪えないような罵声を挙げたりするなという程度の主張であり、在日を金銭的に手厚く援助すべきだという積極的な主張をしたつもりはありませんでした。

 在日の子たちは別に、日本の税金から援助がもらえるから日本に帰りたいわけではなく(そんな援助をされていたことを知らないかもしれず)、日本に大切なキズナがあるから「帰りたい」と思うだけですからね。

 僕にハッキリ主張できるのは、在日の子たちが持っている日本への心の繋がりを、たたき壊すような行為はやめて欲しいということだけです。

 

 僕は、一部左翼の方々が主張するように、日本という国が、在日に対してそこまで酷い扱いをしている差別国家だとは考えていませんし、韓国に「留学」している在日の子たちにとって、日本はむしろ「早く帰りたい」ような良い国なのだということを先日のエントリーに書いたのです。

 そして、韓国という国が、道徳的に日本より遙か上を行く素晴らしい国であるなどとも思っていません(韓国の役所に外国人登録に行ったらガッツリと指紋を採られて、かつての在日の指紋押捺拒否運動とは何だったのかと思いました)。しかし、韓国という国が、一部右翼メディアの言うような無茶苦茶な国であると考えているわけでも、もちろんありません。

 僕は、日本のナショナリズムを批判するために、韓国の反日ナショナリズムと同調しようとする左翼に共感しません。僕は韓国のナショナリズムにも批判的です。そして僕は以前から、日本のナショナリズムは、韓国のナショナリズムよりは相対的にマシであるとも考えてきました。しかし、最近は在特会などの活躍のおかげで、僕が日本に対して持っていたそういう信頼が、揺らいでしまったのは残念なことです。

 

 あなた様はコメントのなかで僕に対して、日本を変えるよりも、韓国を変えるように努めるべきだということを書いていましたね。

 右派の人たちは、左翼が日本のナショナリズムばかり批判して、韓国のナショナリズムを批判しないことを不満に思っているでしょうし、その不満はある程度、道理にかなっていると僕も思うのです。

 しかし結局、自国のナショナリズムは、自国民にしか批判できないと僕は考えています。「批判できない」と言うか、他国のナショナリズムを批判することは、簡単すぎるのです。「簡単すぎる」というのは、安易だという意味でもあります。

 韓国メディアが、「日本の右傾化」やら「日本の軍国主義化」やらを批判したりしているのは、実に安易だと僕は思っています。韓国人にとってそれは何も考えずにできる簡単なことなのでしょう。

 同様に、僕が韓国の反日ナショナリズムを批判することは簡単です。しかし、それはあまりに簡単すぎる、安易なことなのです。そういう安易な言葉は、相手の胸に響かないと思います。

 僕は憲法九条を守るべきであると考える「護憲派」であり、それは元左翼の悲しいサガですが、しかし韓国人が日本の憲法改正についてあれこれ批判しているのを見ると、そんなことをやる前に韓国人がまず取り組むべきは兵役の廃止ではないかと思ってしまいます。

 でも、日本人である僕が「韓国は兵役を廃止すべきだ」などと主張したら、それもまた滑稽なことでしょうし、韓国人が耳を貸すとも思えません。

 結局、韓国を批判し、韓国を変えていけるのは、韓国の若者だけだと僕は考えています。僕が「日本人として」やるべきことは、そういうことではないと考えます。