青空研究室

三ツ野陽介ブログ

感動をシェアすること〜押見修造の『悪の華』を読んだか?

 今年の春にやっていた『惡の華』という深夜アニメは見ていたし、そのときから傑作だと思っていたのだが、今回その原作漫画である押見修造『惡の華』を最新巻の9巻まで読んで、やはりすごく感動したので、その感想を書く。

(こっから先は面倒なので新字体で『悪の華』と書く)

 全13話のアニメ版『悪の華』は、主人公・春日高男の中学生時代の話で終わってしまい、原作漫画は高校生編がまだ連載中なんであるけれども、今回、初めて高校生編のストーリーに触れて、こちらも素晴らしいと思った。

 まず、中学生編のストーリーは、春日高男とクラスメートの佐伯奈々子、仲村佐和の奇妙でえげつない三角関係を中心に進んでいく。

 春日高男は、自意識過剰な文学少年で、澁澤龍彦やらフランス文学やらを好み、中でも偏愛するのがボードレールの詩集『悪の華』(というか堀口大學訳の『惡の華』)という中学二年生である。教室でひとり読書にのめり込む春日は、クラスの友人たちなど文学を解さない馬鹿であると、密かに見下しているわけなんだけど、クラスメートの美少女・佐伯さんのことは天使であると考えて、片思いしている。

 そんなある日、春日は佐伯さんの体操着をついついうっかり(!?)盗んでしまい、それを同じクラスの仲村さんに見られてしまう。この仲村さんは、友達が一人もいない変わり者あつかいされている女子であったが、実は悪魔的な性格の持ち主で、「体操着泥棒をバラされたくなければ…」と脅しまくって、春日に様々なこと(「盗んだ体操着を下に着て佐伯さんとデートしろ」とか)を要求していき、春日の佐伯さんへの思いを、無茶苦茶にしてしまう。最初は仲村さんの嫌がらせに怯えていた春日は、次第に仲村さんが抱えている深い孤独に気づいていく。そして、それぞれにねじ曲がった自意識を抱えた、春日、仲村さん、佐伯さんの三角関係は、ひとつの破局を迎える。

 中学生編の紹介はこんな感じでいいだろうか。

 今回、僕は原作漫画を読んで、アニメ版では中学生編の結末も最後まできちんと描かれていなかったことを知った。そのクライマックスは強烈なものであったが、僕がここで特に紹介したいと思ったのは、それに続く高校生編の素晴らしさである。

  中学生編で色々とやらかして、田舎町にいられなくなった主人公・春日は、二年後、埼玉に引っ越して高校二年生になっていた。文学少年的な過剰な自意識をこじらせて大惨事を招いたことを反省した春日は、全ての本を捨てて読書をやめ、なるべく人と深く関わらないようにしながら、心を閉ざして高校生活を送っている。

  そんなある日、たくさんの友人に囲まれイケてる彼氏もいて、明るく楽しい高校生活を送っている人気者のように見えた女子・常磐文が、実はかなりの読書家であることを、春日は偶然知る。そして、春日と常盤さんは次第に惹かれあっていく。

 というのが高校生編のストーリーであるわけだけど、ヒリヒリする鬱展開だった中学生編に比べると、希望のようなものが見えつつある。

 とにかく、春日と常盤さんが惹かれ合っていくプロセスは、もと文学青年である僕からしてみると、痛いほどよく分かるものだ(もちろん僕に、どこぞの文学少女との淡い恋の思い出があるわけではないのだが)。

 読書する少年、少女は本質的に孤独だ。彼らは、教室の仲間たちとは違う、自分だけの宇宙を心の中に持っている(もっとも、その尊大なプライドが、中学生編では徹底的にぶち壊されたのだが)。

 自分が大好きな本について、その感動を共有してくれる友達がもしできるならば、それは恋人ができることなんかより、遙かに嬉しいことで、それこそが自分を孤独から解放してくれるはずだ。読書する少年、少女はそれぐらいに考えている。僕も中学・高校時代はそうだった。

 もちろん、その理想的な読書友達が、同時に恋人でもあるならば最高だ。

 だから、中学生編における春日の、佐伯さんへの求愛行動も、ボードレールの『悪の華』を佐伯さんも読んでくれ!というものだった。しかし、普通の女の子である佐伯さんは、春日の文学的自意識を受け止めきれなかったし、仲村さんには逆にその文学的なプライドの空虚さを徹底的に暴かれてしまった。

 高校生編のヒロイン常盤さんは、普段は周囲に合わせてリアルを充実させている女子高生である。しかし、本を読む自分は、友達にも彼氏にも、本当には理解されないと感じている。そこに春日が現れる。

 単行本八巻、73ページからの春日と常磐さんのやりとりが素晴らしい。

春日「どうして?どうして…オレだけ部屋に入れてくれたの?」

常磐「だって…。本があるから、私の部屋には。私が本好きだってこと誰にも言ってないから…。」

春日「どうして…?」

常磐「だって晃司も、あの人達も本なんか読まないし、読んだこともないだろうし、それは…表に出しちゃいけないことだって…思ってるから…私…私も結局空っぽなんだけどさ…」

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  部屋に人を呼んで、自分の本棚を見せること。それは、本を読むこの少女にとって、他人に心を開くことと同義だった。これに対する、以下の春日の返答もまた素晴らしい。

春日「…常盤さん、オレも空っぽな人間だよ。だからオレ…もうやめようと思ったんだ、常盤さんから本を借りるのは。僕はどこまで行っても空っぽだから…でも、やっぱり貸してほしい…もっと」

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  中学生編では「俺の好きな本を読んでくれ」というスタンスだった春日が、「君の好きな本を貸して欲しい」と言うようになったことは、高校生編での春日の成長として指摘できるのかもしれない。フランス文学かぶれだったはずの春日は背伸びをやめて、常磐さんのミステリー趣味に抵抗なく共感していく。

 好きな本を貸し借りして、その体験を共有し、感動をシェアすること。本を読む少年少女にとって、これは最高の幸せである。それは全てが分かり合えたも同然のことなのだ。

 NMB48に「太宰治を読んだか」というタイトルの隠れた名曲がある。秋元先生によるその歌詞は、「太宰治を読んだか」と言って薦めてくるヤツがいて、それをきっかけに、人生とは何かを語れる友達になった、という内容だ。

 僕自身も中学高校時代、教室で一人、本を読んでいた。漱石が好きだった。明治大正の文学を読み、世界の文学を読んだ。日本の現代文学を読むようになり、大江健三郎を読み、高橋源一郎島田雅彦を好む典型的な「ポストモダン派」になって、柄谷行人蓮實重彦の文芸批評も背伸びして読んだ。

 深い友達になりたいと思ったヤツに、本を貸したりもした。「とりあえず村上春樹から読んだらいいよ」と言って『ノルウェイの森』を貸したりしてた。たいてい返却されないので、今までの人生で何回『ノルウェイの森』を買ったか分からない(同じ経験を持つ読書人は多いんじゃないかと思うのだが)。僕が大好きだった、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』や、島田雅彦の『天国が降ってくる』が、いま僕の手元に無いのも、貸したまま返ってこなかったからだ。

 結局、当時の僕には、好きな本について語れる友人はできなかった。そして、東大の文学部に行けば、ものすごい文学青年に出会えるんじゃないかという幻想を持って、東大を目指した。実際に入ってみた東大は、「思ったより全然、本を読んでる人が少ないな」と僕をガッカリさせたけど、僕の期待を満たしてくれる出会いもある程度はあった。しかし、大学時代には何より僕のほうが、思春期特有の文学青年マインドから解放されつつあった。 

 僕の場合は本だったけど、それが映画や音楽だった人もいるだろう。何かに感動して、それを誰かに伝えようと思ったけど、分かってくれそうな人が周囲にいない。そんな閉塞感を、思春期に感じていた人は意外と多いのかもしれない。

 しかし今の時代、好きな何かについて語ろうと思えば、インターネットにレビューを書けばいい。何かを見たり聞いたり読んだりして、それが気に入ったならば、「いいね」ボタンを押せば、その感動をお手軽に他人と共有できてしまうのだ。本当にいい時代になったとは思う。

 だけど、自分の感動をなかなか共有できない、その相手がいないという閉塞感こそが、人を表現に向かわせるのではないか。そんなことを昔、東浩紀さんがどこかに書いていたと記憶しているが、それもまた真実だと思う。

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 僕はいま、哲学書をたくさん読み、その「感動」みたいなものをまとめつつ自分の論文を生み出し、それを学会などの場で発表し、共有するといったことをやらなければいけない立場にあるわけで、それは孤独な読書少年だった思春期の僕からすれば、天国のような環境であるはずだ。

 そう、天国のような環境であるはずなのであるが…まあ、なんというか…ね?

 いずれにせよ、押見修造の『悪の華』は僕に、思春期の頃のあの閉塞感を思い出させてくれる漫画だった。それに感動したら「押見修造の『悪の華』を読んだか?」と、その感想をすぐにブログに書けてしまう時代ではあるのだが。果たして、その感動をあなたが共有してくれるのかどうか。

 願わくは、どこかの孤独な少年が、これと見込んだ誰かに「あの本を読んだか?」と薦めたくなるような、そんなものを僕もいつか書いてみたいものである。