青空研究室

三ツ野陽介ブログ

哲学は世の中に必要か、哲学は社会の役に立つか

 大学で勉強したことは、社会に出てから役に立たない、という意見がある。

 確かに、例えば大学で西洋史を専門的に勉強しても、西洋史学者を目指さないならば、そこで勉強したことは、将来の飯のタネにはならないだろう。

 まあ、文学部に属しているような学科はたいていそうである。

 文学部どころか、法学部や経済学部で学べることも、たいして役に立つものではないという話になって、経済学に詳しくなってもビジネスにはほとんど関係ないし、経営学を勉強したって優れた経営者になれるわけではない、とさえ言われたりする。

 まあ僕は、経済学や経営学のことはよく分からない。

 ここでは「哲学は世の中に必要なのか」「哲学は社会の役に立つのか」という問いを立ててみる。

 

 大学で学問研究を行っている人の中には、自分が好きな研究ができればそれでいい、と考える人が多い。それが社会のなかでどのような意義を持つのかということに関しては無頓着で、そんなことを考慮しなくても、文学部にお金とポジションが与えられていた、かつての牧歌的な時代を懐かしむ声も多い。

 それどころか、役に立つかどうかで物事に価値をつけ、役に立たないと判断したものは切り捨てていく、そんなやり方をネオリベ的として批判する学者さえいる。

 僕自身は、哲学というものが、もしも、世の中から必要とされておらず、何の役にも立っておらず、それにもかかわらず、「文学部哲学科」という門をドシリと構えて大学で偉ぶっていて、そこにどういうわけかお金が支払われているならば、そんなものは切り捨てられ、解体されても、当然じゃないかと思っている。

 まあ、そんな主張をわざわざしなくても、時代の流れは実際にそうなっている。

 ただし僕は、哲学が世の中から必要とされていないというのは、本当なのかなとも思う。

 これは別に高尚な話をしようというのではなくて、例えば数年前、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』という本がブームになって、日本で何十万部も売れたという端的な事実から考えて、そう思うのである(ちなみに韓国でも流行ってました)。

 サンデルが現代哲学のトップランナーの一人であるのは事実だし、あの本が、哲学の専門的な知識を持たない人にも訴えることのできるサービス精神にあふれた本であったのも事実だが、しかし、あれが何十万部も売れたということは、やはりおかしなことだったと僕は思うし、正直ちょっと衝撃だった。

 あの本を手に取った人ならば同意してくれると思うのだが、あれを買った何十万という人のなかで、最後まで読み通した人は、せいぜい10パーセントぐらいじゃないだろうか。あの本は読みやすい本ではあったが、何十万部も売れていいほど、読みやすくはなかった。

 サンデルの本が売れたのは、あれが素晴らしい本だったからというよりも、実はそれだけ哲学というものが、世の中から必要とされていたからだと思う。いまの現状において、哲学が社会の役に立っているかは分からないし、まあ役に立っていないんだろうと思うけど、哲学にも世の中の役に立って欲しいという社会的な要求は、実際にあるのではないだろうか。これからの正義の話をしてくれ、と。

 まあ現金な話ではあるが、「売れた」という事実の前には、「哲学は必要か」という議論など吹っ飛んでしまうようなところがある。誰にも読まれないから、「哲学は一見、役に立たないように思えるが、実は有用性などでは測れない価値があって〜」などと面倒な議論をしなければならなくなるのだ。

 理科系の人たちの「実用性の高い工学ばかり優遇されるが、基礎科学の研究には有用性では測れない価値があって〜」という主張に、便乗しようとする人文系研究者も多いようだが、いかがなものか。

 ところで、小川仁志さんという哲学者の本がたいそう売れているらしい。小川仁志さんの本のほとんどは、一般の人たちにも分かりやすいように哲学を解説する入門書だが、なぜ読まれているのか。それは、哲学が多くの人に求められているにもかかわらず、その要求に応えようとする哲学者が、小川仁志さんの他に、ほとんどいないからだと思う。

 もちろん、小川さんの本には、独自の仕掛けが色々と施されており、僕がKindleで読んだ『人生が変わる 哲学の教室』は、「歴史上の著名な哲学者が現代に現れて、悩める高校生やサラリーマン、主婦たちに対して授業をする」という形式で書かれた本だった。

 僕にはそんな芸当は真似できないが、「 商店街で「哲学カフェ」を主宰するなど、市民のための哲学を実践している」という小川さんのプロフィールに関しても、そんなことをやってみたいという気持ちが僕にもあるため、ロールモデルとして見ならいたいと思った次第である。