青空研究室

三ツ野陽介ブログ

誰もが何者でもないが何にでもなれる時代

 もっとブログの更新頻度を増やしたい……と何度か言っているのだが、全然そうならない。これからは、近況報告や、思いつきのようなメモも、気軽にちょくちょく書いていこうと思う……ということも前に書いたことがある気がするのだが。

 四月から千葉県にある体育大学で、非常勤講師のコマをいただいた。と言っても、体育の授業をやるわけではなく、いわゆる教養科目の授業を担当する。

 韓国でやっていたのは、日本語を教える語学の授業であり、自分が研究者として考えてきたことを学生達に向かって講義することはなかったので(それを韓国でできなかったことが最大の心残りだったのだが)、四月からの授業がとても楽しみだ。

 見知らぬ人に自分の話を聞いてもらえるなんて、女性のいるお店に行くか、精神科医のいる病院に行くか、いずれにせよこっちがお金を払わなくちゃいけないようなことなのに、たくさんの学生に自分の考えを聞いてもらえるうえに、お金までもらえるとは、なんて素晴らしい仕事なんだろうと思うのだが、そんな心構えでいて、寝ている学生を注意したりできるんだろうか(たぶんしないと思う)。

 基本的には、どんな内容でもいいということだったのだけれど、いちおう「歴史の分岐点」という授業名があって、これは変えられないようなので、とりあえず歴史に関する何か、というお題を与えられたことになる。

 僕は歴史学者ではないので、歴史の講義をすることはなかなか難しいが、前近代(プレモダン)、近代(モダン)、現代=脱近代(ポストモダン)という枠組みのなかで、近代という時代の特徴や、近代化が終わった後の現代について考える、そんな授業をしようと思っている。僕にとっては、ちょっと懐かしいようなテーマだが、これを機会に考え直してみるのもいいだろう。

 最初の授業は、近代という時代を特徴づける自由という概念について。
 つまり、前近代においては、農民の息子は農民にならなければいけなかったのが、近代以降は、誰もが何者でもないと同時に、何にでもなれる時代になった。現実にはそうでなくとも、それが近代のタテマエであり、このタテマエは「自由」と呼ばれている。そして、その自由さこそが、僕たちにとって最大の悩みのタネなんだ、という話である。

 僕自身は「何にでもなれる」年齢を過ぎてしまったが、入学直後の大学一年生にはいいんじゃなかろうか。