青空研究室

三ツ野陽介ブログ

幸せの互換性〜『黒子のバスケ』脅迫事件と人生格差問題(2)

前回のおさらい

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  昨日のエントリー(幸せの配り方〜『黒子のバスケ』脅迫事件と人生格差問題)では、「「カネ」「地位」「オンナ」「名誉」といったそれぞれの領域において、個別に格差を是正しなくても、それらのゲームが別々に行われて、こっちのゲームで勝った人はあっちのゲームでは負けている、という社会であれば良い」のであって、「ひとつのゲームで勝った人が、他のゲームでも勝ってしまうことがなるべく少ない社会を作る、というかたちでの幸せの配り方」も、「人生格差」を生まないために重要だということを書いた。

 しかし、これはもちろん理想論のようなものであって、実際には、それぞれの幸せのあいだには互換性がある。つまり、「カネ」の分野での勝利は「オンナ」の分野でも通用するし、「地位」さえあれば「カネ」も手に入る、ということが起きるわけだ。

マイケル・ウォルツァーと複合的平等

 この議論には元ネタがあって、アメリカの政治哲学者マイケル・ウォルツァーの『正義の領分 —多元性と平等の擁護』という本がそれである。この本でウォルツァーは、「財[goods]の配分」について論じたわけだが、僕はこれを「幸せの配り方」と訳してみた。

正義の領分―多元性と平等の擁護

正義の領分―多元性と平等の擁護

 

 ウォルツァーは「自由と両立する平等主義」として「複合的平等」というものを考えた。この概念を表現している文章として、ウォルツァーは、パスカルの『パンセ』のこんな一節を引用している。

 圧制とは、自分の次元をこえて全般的に支配しようと欲するところに成り立つ。

 強いもの、美しいもの、賢いもの、敬虔なものは、それぞれ異なった部面を持ち、おのおの自分のところで君臨しているが、他のところには君臨していない。

 だから次のような議論は、まちがいであり圧制的である。「私は美しい、だから人は私を恐れなければいけない。私は強い、だから人は私を愛さなければいけない。私は……」

 専制とは、他の道によらなければ得られないものを一つの道によって得ようと欲することである。

 また、ウォルツァーは、これと同様の主張として、マルクスの以下のような言葉を引く。

君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。

 パスカルマルクスも言っていることは同じで、一つのゲームでの勝利が別のゲームでの勝利に変換されてはならないということである。その変換ができてしまう社会は圧制的であり、専制的なのである。

専制的な幸せ

 『黒子のバスケ』の話に戻ると、作者の藤巻さんは別に、上智大学に合格したから漫画家になれたわけではなく、それぞれ別のゲームで勝利しただけなので、藤巻さんの複数の領域における成功は、別に専制的だなどとは言えないわけである(そもそも上智は中退しているようだし)。

 ただ、パスカルマルクスの言うことが正しいならば、スポーツ推薦で大学合格みたいなことは専制的だという話になるんじゃないかとも思うし、あるいは「親が金持ちじゃないと東大受からない」という説は、「カネ」が「学歴」に変換される専制的体制の例として、糾弾されているのである。

 近代以前の社会は、身分さえ高ければ何でも手に入る専制的な時代だった。それが近代社会になると、金さえあれば何でも手に入る時代に変わった。というのは、当たらずとも遠からずだろう。新興ブルジョアは貴族身分さえも買ったのだ。

 今日の社会も相変わらず、かつてホリエモンが言ったような「稼ぐが勝ち」の貨幣の専制が続いているのだろうか。それともカネに取って代わるような新しい価値、もしその分野で負けてしまえば、「ただこの一点で人生崩壊」というような究極の幸せが、ほかにあるのだろうか。