青空研究室

三ツ野陽介ブログ

結果に対する道徳的な責任〜例えばカズを外した岡田監督と俊輔を外した岡田監督

STAP細胞が存在すれば許されたのか

 小保方さん騒動に関して、

 「STAP細胞が本当に存在するのかどうかが重要であって、論文での不正など些細なことではないか」

 という意見の人が結構いる。

 ああ、そういう考え方をする人も多いんだなあと思った。

 それは、もしどこかの研究者が、STAP細胞の再現実験に成功したならば、たとえ論文に不正があったとしても、小保方さんは再生医学の発展に大きく寄与したことになるから、褒め称えられるべきだ、という考え方である。

 小保方さんを批判している人たちのなかにも、不正そのものに対してより、STAP細胞が存在しなかったということに対して怒っている人が少なくない。

革命のためには殺人も許されるか

  これは、人類を楽園へと導く革命のためならば、手段は問われず、たとえ人を殺してもよい、というのに似た考えである。

 この革命を支持する人にとって重要なのは、「人を殺しても良いかどうか」よりも、「革命がユートピアを実現できるかどうか」なのである。

 革命がうまくけば、その過程で失われた命は、やむを得なかった些細な犠牲ということになる。逆に、革命がうまくいかなければ、「お前なに人を殺してんだよ!」と激しく責められギロチン行きである。

 やったことは同じでも、その結果がどうなるかによって、道徳的評価がまるで違ってしまうのだ。

1998年と2010年の岡田監督

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 「結果だけが問われる」ということで、まず頭に浮かぶのは、スポーツの世界である。

 例えば、1998年のサッカー・ワールドカップで、岡田武史監督は大会直前でカズ、三浦カズをメンバーから外した。

 僕の記憶が正しければ、そのときすぐに岡田監督を非難する声をあげた者は少なかったはずである。中田英寿がまばゆい輝きを放っていたあの当時の世論は「カズ不要論」が支配的であり、岡田監督の決断はむしろ世論を受け入れたもののようにさえ見えた。

 しかし岡田監督は、あれから15年経った今でも、「あそこでカズを外した岡田監督はヒドい!」と責められることがある。その声はほとんど道徳的非難の調子を帯びている。

 一方で、2010年のワールドカップで、岡田監督が大会直前に中村俊輔をチームの中心から外しベンチに座らせたことに関しては、「あれは酷い!」と責めるものは少ない。あのときも「俊輔不要論」の世論はあったが、それは「カズ不要論」の時も同じである。

 結局のところ両者は、98年には三戦全敗という結果に終わり、2010年はベスト16進出という結果を出した、という点で違っているだけだろう。もう一つあるとすれば、「キングカズ」が47歳になっても現役を続けている、というその後の歴史を僕たちが知っているという違いである。しかし、それらは決断の時点では知りえなかったことだ。

 いずれにせよ、カズ、三浦カズを外したことに関する岡田監督への非難は、監督としての手腕に対する能力的評価ではなく、「岡ちゃんは冷酷だ」という道徳的評価なのである。それは、「カズを出していれば、勝てたのに」と主張しているのではなく、「どうせ負けるんだったら、カズを出してあげれば良かったのに」と主張しているのである。

 このように、僕たちはしばしば、その後の結果を知っている視点から、当時の判断を道徳的に非難するのだが、このような結果重視の感覚は、どれぐらい正しいのだろうか。

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