青空研究室

三ツ野陽介ブログ

これからの「謝罪」の話をしよう〜前の世代の過ちについて

国家は歴史上の過ちを謝罪すべきだろうか

f:id:ymitsuno:20140330224349j:plain

 ハーバード大学マイケル・サンデル先生の『これからの「正義」の話をしよう』は、日本では何十万部も売れたそうだが、そこまで読みやすい本でもないから、最後まで読み通した人は、そんなに多くはなかろうと思う。

 ところで、この本の後ろのほうには「謝罪と補償」について論じた章がある。

  サンデル先生はそこで、ユダヤ人に謝罪したドイツに比べると、「日本は、戦争中の残虐行為への謝罪にはもっと及び腰」であり、「韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された」と書いている。

 サンデル先生はその他に、オーストラリア先住民の問題、戦時中の日系アメリカ人強制収容問題、そしてアメリカにとってはもっともシリアスな、奴隷制の問題などにも言及した後、「国家は歴史上の過ちを謝罪すべきだろうか」という問いを提起している。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

  謝罪や補償の試みは、かえって「昔の敵意を呼び覚まし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植えつけ、反感を呼び起こす」こともあるから、それが本当に「過去の傷を塞ぎ、道徳的・政治的な和解の基礎作りに役立つ」かどうかは、「場合によって異なる」かもしれないと、サンデル先生は言う。

公式謝罪に対する原理的反対論

  そこでサンデル先生は、「歴史上の不正への謝罪に反対する人たちがよく持ち出すもう一つの主張ーー状況の偶発性に左右されない、原理に基づく主張」に的を絞りたいと断ったうえで、以下のような主張について検討していく。

  これは、現存する世代は前の世代が犯した過ちについて謝罪する立場にはないし、現実問題として謝罪できないとする主張である。不正について謝罪するということは、結局、なんらかの責任をとるということだ。自分がしなかったことに対しては、謝罪のしようがない。自分が生まれる前に行われたことについて、どうやって謝れと言うのだろうか。

 僕もここでは、従軍慰安婦が強制だったかどうか、日本の朝鮮半島支配がどれぐらい過酷だったかなどの話ではなく、過去の日本人が多かれ少なかれ過ちを犯したとして、それをわれわれが謝罪すべきなのかどうかという点に、的を絞って考えてみたい。

  サンデル先生はこのような考えを、「公式謝罪に対する原理的反対論」と呼び、この立場が、「自由であるとは、みずからの意思で背負った責務のみを引き受けることである」という「道徳的個人主義の原理」のうえに立脚していることを指摘する。そして、「道徳的個人主義の自由観が正しいとすれば、公式謝罪の批判者に一理あることになる」。

道徳的個人主義共同体主義

 そこから先のページのサンデル先生の話は複雑で、脇道に逸れがちでもあるのだが、結局サンデル先生は、この「道徳的個人主義の自由観」は正しくない、という方向に議論を進めている。

 つまり、われわれは、何も書き込まれていない白紙の状態で、ただの「人間」、ただの「自由な個人」として生まれてくるのではなく、あらかじめ色々な歴史が書き込まれた「日本人」として生まれてくる、あるいは、家族など様々な共同体の構成員として生まれてくるのである。サンデル先生はそう考える。

  われわれが個人として、みずからの選択と行動にしか責任がないと言い張れば、自国の歴史と伝統に誇りを持ちにくくなる。(……)愛国心からの誇りを持つためには、時代を超えたコミュニティへの帰属意識が必要だ。

 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。

f:id:ymitsuno:20140331005229j:plain

 立場を整理してみると、左の図のような感じになるかと思う。

 普通、歴史問題というのは、「日本人として誇りを持て」(B)と言うか、「日本人として謝罪しろ」(C)と言うかの問題として考えられており、その二つの立場は、どちらも道徳的共同体主義に基づいているという点で、実は共通している。その両者のあいだで激しい論争が交わされているのだ。

 しかし、もうひとつ、道徳的個人主義の立場というものもある。この(A)の立場は、そもそも自己の出発点が「日本人として」というところに無いので、誇りを持つにしろ謝罪をするにしろ、その共同体に積極的にコミットすることができない。

日本の個人主義と韓国の共同体主義

 そして、日本人の多数派というのは、本当はこちらのほう、道徳的個人主義の立場ではないか。少なくとも韓国に比べればそうである。

 韓国という国は、道徳的個人主義の弱い国である。儒教というものがそもそも、共同体主義の思想なのだろう。韓国人は、「自由な個人」である前にまず「韓国人」なのであり、父や母の息子、娘であり、祖先の子孫なのだ。少なくとも、日本人よりはそのような傾向が強いだろう。

 だから、歴史問題というのは、日本の歴史を誇るべきなのか恥じるべきなのかという問題である前に、そういう歴史がどれぐらい個人としての自分に関係があるのかという問題でもあるのだ。

 この点の認識についても、日本と韓国のあいだには、大きなギャップがある。と言うか、こちらのギャップのほうが、より深刻なのである。