青空研究室

三ツ野陽介ブログ

遅刻しそうな曲がり角で転校生とぶつかったら、なぜ運命になるのか

いわゆるお約束

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「やばいっ!遅刻しちゃうっ!」と、食パンくわえて飛び出した女の子が、曲がり角で同じ学校の制服を着た男の子と激突する。ドスン!

 「いってえな!何すんだよ!」と怒鳴られた。朝からついてない。見たことない顔だったけど、うちの生徒だろうか?

 そして、その日のホームルーム。さっきの感じの悪いアイツが教室に現れ、先生に転校生として紹介される。

 「あっ!あんた、さっきの!」と思わず叫ぶ女の子。お、なんだ?お前ら知り合いか?

 この最悪の出会いが、二人にとって運命の出会いとなることを、このときはまだ誰も知らなかったのだった。

 みたいな。

 偶然が必然になるとき

 これは、青春モノのストーリーのベタな展開として有名な、お約束のパターンであるけれど、どうしてこれが運命の出会いだということになるのだろうか。

 まず、偶然が二つ以上重なると、それは運命だ、ということになりやすい。

 曲がり角で人にぶつかる偶然と、彼が自分のクラスの転校生だという偶然は、それぞれとても確率の低いことであり、そんな偶然が重なるのは、さらにありそうもない奇跡だ。

 この奇跡が起きた理由は、合理的に説明できないから、「これは運命かもしれない」という非合理な論理によって、それを説明しようとする。ただの偶然を、運命という名の必然として理解しようとするのだ。

 necsessity[必然性=必要性]としての運命

 これは登場人物の視点から考えた場合だけど、もう一つ別の観点からも、偶然から必然への転化は起きる。

 それは、「この出会いが、運命の出会いであることを、まだ誰も知らなかった」という、語り手の視点である。

 この語り手は、登場人物や読者がまだ知らない物語の展開をすでに知っている。

 つまり、偶然ぶつかった二人が、その後、ただのクラスメートを超えた関係になることを、語り手はあらかじめ踏まえたうえで、「これは運命の出会いだ」と言っているのである。もしかしたら、二人が出会ってしまったことは、のちの世界の行く末をも左右する重要な出来事なのかもしれない。

 逆に言うと、重なったこの偶然が、物語の展開上、重要な意味を持たない出会いであるならば、それは別に「運命」とは呼ばれない。偶然はただの偶然のままである。

 結局のところ、運命というのは、因果関係から見た必然性[necessity]ではなく、物語展開上の必要性[necessity]なのである。

 二人の出会いは、「もともと出会うはずだった」という必然性を持っていたというよりも、ストーリー上、出会ってもらわなくては困るという必要性を持っていたのである。

 僕たちの運命の物語

 ところで、僕たちの人生においても様々な偶然が起きている。ときには、その偶然が重なる奇跡もあるだろう。

 しかしほとんどの偶然や奇跡は、物語を構成する重要なシーンとして数えられず、ただの偶然として、僕たちの人生の物語からカットされている。

 その一方で、ある人との偶然の出会いが、その後の人生において重要な意味を持つようになったとき、自分の人生を物語るうえで欠かせないエピソードになったときには、その物語的必要性が、必然性として、運命として理解され始めるのである。

 今から考えるとあれが運命の瞬間だったなと、あとから物語りながら、僕たちは生きているのだ。