青空研究室

三ツ野陽介ブログ

誰が世の中のことを一番分かっているのか〜コンサルタント的知性について(1)

文芸批評の時代

 「かつて文芸評論家が担っていたような役割を、今は社会学者が担うようになった」ということが、よく言われた時期があった。十年ぐらい前の話である。

 まあ、ほとんどの人の耳にはそんな声は入ってこなかっただろうが、僕が読んでいたような本ではよく言われていた。

 つまり、昭和の時代には、文学作品を批評することを本業とするはずの文芸評論家という肩書きの人たちが、様々な社会問題、政治課題に関して、雑誌などの媒体で叩っ切るという、総合的な知識人の役割を果たしていた。そんな時代のなかで、小林秀雄吉本隆明江藤淳などの批評家が、知的好奇心旺盛な若者たちをハラハラさせていたわけだ。

 僕自身は、時代錯誤の文学青年だったので、時代はもう平成になったというのに、柄谷行人蓮實重彦といった文芸批評家を「知の巨人」として崇めながら世紀の変わり目を過ごしていた。

社会学と心理学の時代

 そういう総合的な知識人の役割を社会学者が担うようになった、というのは、おもに宮台真司さんなどの存在を想定して言われていたのだが、「文芸評論家が 社会のことを一番よく分かっている」という幻想がなくなって、社会のことを一番よく分かってるのは、やっぱり社会学者だろという認識が広まった。社会学者 が評論家的な活動を引き受けるということが多くなったのである。

 あるいは、それと似た話で、こんなことも言われていた。

 例えば、少年犯罪や猟奇殺人など、常識では理解できないような社会的事件が起きると、昔の週刊誌は、作家にコメントを求めることが多かった。世の中のことを、一番よく分かっているのは小説家だ、と考えられていた時代があったわけだ。石原慎太郎田中康夫などの作家が政治家になったのも、そんな時代が背景にあるのだと思う。

 しかし、作家の権威というものも今は無くなって、人間の「心の闇」のようなものに一番通じてるのは、心理学者や社会学者だと考えられ、メディアはそういう人たちにコメントを求めるようになった(今はかろうじて、石田衣良さんがそんな類のコメンテーターを引き受けている作家ではないだろうか)。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

コンサルタントの時代

 ところで最近気になるのは、「経営コンサルタント」という肩書きの人たちが、評論家的活動を担うことが多くなってきたことである。いわゆる勝間和代さんをはじめとする「マッキンゼーを経て、うんぬんかんぬん」という経歴を持つ人たちだ。あるいは、ここにホリエモンのような、経営者的な観点から言論活動を行っている人を含めてもいいのかもしれない。

 それで、「社会学者が担っていた役割を、コンサルタント的知性の持ち主が担うようになってきた」ということを、最近少し考える。

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 もちろん、僕が柄谷行人をありがたがっていたような時代にも、大前研一が日本最高の知性だと考えていた人は、たくさんいたのだろうし、僕が無知だっただけで、経営者が世の中を語ってる本も、昔からたくさんあったのだろう。

 そして、社会学の分野からも相変わらず、新しい評論家的な人物が出てきているのだし、こういうことが言えるのかどうか分からないのだが、「文学者的知性」から「社会学者的知性」へ移動した覇権が、さらに「コンサルタント的知性」へと移ろうとしているということが言えるのだとすれば、これは何を意味するのだろうか。

 

(つづきあります)知性の種類と馬鹿の種類〜コンサルタント的知性について(2)