青空研究室

三ツ野陽介ブログ

勝利のビジネス書と敗北の文学

 世に溢れるビジネス書、自己啓発本というものは、多かれ少なかれ成功者の自伝という要素を持っている。
 勝ち組の著者が「私はこんなふうに生きてきました」と人生を語れば、それが読者によって「そんなふうに生きれば成功できるんだな」というノウハウに変換されるわけである。
 直接的に自伝を語らない、ノウハウを中心にしたビジネス書であっても、「こんなふうにやれば上手くいきますよ」というアドバイスに説得力を持たせるのは、結局のところ、成功に彩られた著者略歴なのである。

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 ところで文学は、少なくとも日本の近代文学は、敗北者の自伝という要素を持っていた。
 例えば、夏目漱石の作品は、本来ならば国を背負っていて然るべきエリートが、世間から求められず、無為に日々を送っている様子を描いた。森鴎外の『舞姫』も、女を捨てて出世を選んだ官僚が罪悪感に苦しむ話だ。太宰治の『人間失格』まで持ち出さなくても、その種の主人公は文学史に溢れている。


 僕はと言えば、漱石が大好きだった中学生の頃から「漱石作品に出てくるような高等遊民に俺はなる!」などと、のたまっていたので、今の自分の境遇というものも、ある意味では夢を実現しちゃったというのか、その意味では成功者と言うべきなのか、とにかく自業自得としか言いようがないところがあるのだ。

 世の中には「高学歴ワーキングプア」という議論があって、大学院を博士まで行ったのに、大学にポストが無くて悲惨だ、どうにかしろという声があがっているのだが、どうも自分はそういう話に乗っかれない気持ちがあって。

 僕はもう、将来官僚になるような人たちと予備校の東大クラスで机を並べていた頃から、彼らと自分が同じ人種であるとは考えておらず、気分はすでに人間失格だったので、「同じ東大卒の人間は年収○○○○万稼いでるのに、自分ときたら……」というふうには、今でもなかなか考えられないのである。

 それにしても、成功者の自伝を読んで得られるものが成功のノウハウであるとして、敗北者の文学を読んで得られるものは、いったい何なんだろう。まさか、失敗のノウハウというものでもあるまいし。

 そして、どうして僕たちは、成功者たちの物語をどこか嘘くさく感じ、失敗者たちの物語に何か真実のようなものがあると感じてしまうのだろうか。