青空研究室

三ツ野陽介ブログ

僕の韓国本コレクション

 韓国に住んでいた頃の「趣味」の一つは、韓国や日韓関係についての書籍を読むことだった。

 もっとも僕は、韓国研究者ではないし、読んだ本は学術的な研究書とは言えない、一般向けの本がほとんどである。

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 左翼系の研究者が書いた本も何割かあるけれど、例えば韓国の友人に「この本、面白いから読んでみな」と気安くは薦められないような右派系の本の割合のほうが多い。そもそも韓国について本を書く人は、昔から保守系の人が多かった。

 もちろん、左右どちらでもない、政治色の薄い本もある。サッカー選手の『パクチソン自伝』とか。

 いままでに読んだ、韓国関連本を、ベッドの上に広げてみると、上の写真のような感じになった。すごく多くはないが少なくもない、というぐらいの量だろう。二年間の趣味の範囲としては、こんなものなのでは? 残念ながらすべて日本語の本である。

 この画像に写っているのはすべて通読した本で、入手したけれど未読の本が、これと同じぐらいの量ある。あとはKindleで読んだのがいくつか。

 僕が帰国したのと同じぐらいのタイミングで、日本の出版業界ではいわゆる「嫌韓本」のブームが来た。

 帰国後は、僕の中の「韓国を知らなければ」という使命感も以前ほどではなくなるのは仕方ないところで、書店に並ぶ嫌韓本にあれこれ目を通しているわけではないが(まあ、どの本も書いてあることはだいたい同じで、飽きたというのもある)、『悪韓論』『呆韓論』『犯韓論』ときた嫌韓本のタイトルセンスも、ついにここまで来たかと思わせる『恥韓論』という新書を、今日ついつい買ってしまったので、読み終わったら感想を書くかもしれない。

韓国人による恥韓論 (扶桑社新書)

韓国人による恥韓論 (扶桑社新書)

 
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 ところで、僕の韓国本コレクションの中には、自分で買ったのではなく、韓国時代の勤め先の大学から持ち帰ってきた本が、何冊かある。

 例えば、小室直樹『韓国の悲劇』(光文社1985)のような古い本がそれで、小室直樹と言えば、宮台真司さんの師匠というイメージが僕の中では強いのだが、八〇年代にこんな韓国批判本を出している人だったんですね。

 僕が韓国の大学に務めていた頃、自分専用の研究室は与えられていなかったのだが、日本人の同僚の先生が三人同居している研究室(控え室?職員室?)があり、そこに机と本棚があった。

 その研究室の本棚には、前任者か、それ以前の歴代の先生の所有物であったとおぼしき、「日本語で書かれた韓国関連本」が大量にあった。

 朴泰赫 著『醜い韓国人―われわれは「日帝支配」を叫びすぎる』(光文社1993)をはじめ、タイトルだけでもヤバい本が研究室の本棚にズラッと並んでいたので、「いったい誰が、何の目的でこんなコレクションを……?」と唖然としながら、僕は、そのうちの何冊かを手に取って読んだりしていた。

  かつてここに務めていた日本人の先生が、学生たちの前ではニコニコ笑顔を作りながら、陰ではこんな嫌韓本をコレクションしていたのだろうか? だとすれば、恐るべき日本人の二重性!などと思っていた(まあ、僕もその本を手に取って読んでいるのだが)。

 ある日、韓国人の先生が、僕らの研究室をふらりと訪れたとき、この本棚の話をしたら、コレクションの謎が解けた。

 かつて、この大学の日本語学科には、大御所のような偉い教授(もちろん韓国人の先生)がいたそうである。その大御所は、ものすごい読書家で、日本で韓国について、どんな本が書かれているのかにも興味を持ち、ここににある本もほとんど、その先生が集めたのだと。しかし、引っ越しのときに奥さんに、たくさんありすぎる本を捨てろと迫られたので、蔵書をこの学科に押しつけていったのだと。すでに退官しているとはいえ、偉い先生が寄贈した本なので、正直、処分に困っていると。

  結局、その韓国批判本コレクションは、日本人ではなく、韓国人の先生が集めたものであったことが判明したわけである。お目にかかったことはないが、きっとその大御所の先生は、すごい人だったのだろうな、と僕は思った。

 彼はおそらく、自分とはまったく違う価値観に基づいて書かれていただろう、それらの本を、わざわざ日本から取り寄せ、向き合おうとした。僕はそんなふうに、その大御所のことを想像したのである。