青空研究室

三ツ野陽介ブログ

隣国を語ること、自国を語ること 〜シンシアリー『韓国人による 恥韓論』

 いわゆる「嫌韓」、韓国批判の言説というものには二種類あって、ひとつは韓国の反日的な主張に対して反論、抗議するものであり、もうひとつは、日本と無関係に、ただ韓国社会の内部の問題について、あれこれ欠点を批判(紹介?)するものである(その他に、どうしようもないワンフレーズの罵倒や、「在日」に関するものなどもあるが、今回は論じない)。

 まず第一のケース、嫌韓の言説が「反日」への反論をおこなう場合には、それは例えば、「日本はもっとちゃんと謝罪しろ」という韓国の主張に対して、「謝罪謝罪って、そろそろいい加減にしろよ」という真っ向対立する主張をぶつけるものであるからして、二つの見解は正反対のものになる。このケースは「二つの異なる意見が対立してるんだな」ということで、構図としては分かりやすい。

 その一方で、韓国国内のことに関して、「実は韓国はこんなにも問題の多いトンデモ社会なんだ!」と紹介をおこなう嫌韓本やネット情報も、最近の日本には広く流布している。こちらに関して言うと、同じような言説は韓国内部にも溢れており、「韓国はこんなに問題の多い社会だ!」という嫌韓本の批判は、実は韓国内の言論と重なっているわけである。だから、両者のあいだに意見の対立はないのだ。

 例えば、セウォル号の沈没事故の際、韓国のジャーナリズムにおいては、
「先進国ではありえない事故だ!韓国は三流国家だった」
 という自己批判の言葉が溢れた。
【社説】韓国は「三流国家」だった | 中央日報

  それに呼応するようにして、日本の嫌韓ジャーナリズムにおいても、
「先進国ではありえない事故だ!韓国は三流国家だった」
 という隣国批判の声が聞かれた。

 この場合、両者の言っている内容は同じなのだが、発言している立場が異なる。同じ言葉が、異なる立場から発せられた場合、それは大きく異なるニュアンスを持つ。つまり、セウォル号事故についての報道は、日本では「韓国って、どうしようもないなあ」というゴシップとして、消費された側面があったわけだ。

 同じ言葉でも、発する立場が異なれば、その言葉が持つ効果は変わってくる。

 例えばここにある男がいるとして、彼が、「俺なんてどうせブサイクだからモテない」と言ったとしよう。それを聞いた誰かが、彼に向かって「確かに。お前はブサイクだからモテないね」と同意したとする。

 この場合の、「俺はブサイクだからモテない」と、「お前はブサイクだからモテない」は、発言の内容としては同じなのだが、自分でそう思っていたとしても、ひとから言われたら、頭にくるだろう。貴様、ふざけんなよ、と。そこで、「だって事実なんだから、しょうがないだろ」と開き直れるものなのかどうか。

 友達なのであれば、「俺ブサイクだからさあ」と言われたら、「そんなことないよ。そのうちカノジョできるって!」と励ましてやらなければならないようなところがあるわけだ。

 さて、いま書店に並んでいる嫌韓本には、センセーショナルな題名のものが確かに多いのだが、中身に関して言うと、韓国人自身が自国について日頃から嘆いているのと同じことが書いてあるだけというものが案外多い。(嫌韓の情報ソースは韓国の新聞の日本語版サイトという皮肉 - 青空研究室)。

 苛烈な受験競争、若者の就職難、国民の借金体質、格差と貧困、縁故主義、政治腐敗、財閥支配などなど。こういうことは、韓国国内でも問題視され、批判の声があがっていることである

 そういう意味で言うと、多くの嫌韓本は、一部をのぞけば、実はそんなに非道徳的な言説(レイシズム!)で韓国を罵っているわけではない。韓国でも指摘されているようなことが書いてあるのだ。

 しかし、そういった本を日本人が読む場合、「韓流だけ見てたらわからないけど、韓国ってこんなに問題の多い社会なんだなあ、ああ、日本に生まれて良かった」というある種の娯楽として、消費されることになる。

 そういう根性はゲスなものであるからして、あんなものは読むべきではない、と良心的な人であれば考えるだろう。しかし、そういうかたちであっても、隣にある国について、もっと詳しく知ろうとする欲求は、全否定されるべきものなのかどうか。一見、良心的な人ほど、実は単に隣国の姿に無関心なだけ、ということもある。

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 それで話は少し変わるが、シンシアリー著『韓国人による 恥韓論』という本を読んだのだ。「シンシアリー」という匿名で、アメーバブログを書いている韓国在住の韓国人が、最近出した本である。タイトルは企画段階から編集者が決めていたものだという。ちなみに次の本は、『韓国人による沈韓論』だそうな……(タイトル決定?|シンシアリーのブログ

 類書を何冊も読んできた僕からすると、内容はとくに真新しいものではなかった。

 東日本大震災のときの一部韓国人のはしゃぎぶり、対馬の仏像盗難事件とそれに続くトンデモ判決、色々な「韓国起源説」、今日の韓国における売春問題、韓国人の過剰な競争意識と序列意識、面子へのこだわり、高身長へのこだわり、「スペック」至上主義、「日本の植民地支配は良かった」と語った95歳老人の撲殺事件、大韓民国臨時政府と抗日運動の虚構性、米日と中国の対立軸のあいだで「バランサー」になろうとする韓国の「勘違い外交」、などなど。

 類書にもよく書いてある、定番メニューであった。

 ただ、この本の特徴は、著者が韓国育ちの韓国人であるということである。もっとも、「韓国人による嫌韓本」という存在も、別に珍しくはないのだが、やはり、韓国人が日本語で、日本人に向けて韓国批判の本を出すというのは、少し特殊な立ち位置だろう。

 韓国では、内政的な問題に関しては、自国への批判が活発で言論の自由があるのだが、日韓問題について自国に批判的な主張をする言論の自由は無い。

 そのような中で、韓国の「反日教」を「恥ずかしい」と自己批判する、この著者の知性と勇気は、立派なものではないかと、正直、思う部分もある。

 しかし、「韓国の反日ナショナリズムを批判する韓国人は立派だ」というこの言葉自体、日本人である僕の立場から発せられた時点で、どうしようもなく残念なニュアンスになる。この本の著者は、韓国人の限界を踏み越えて発言しているのに、僕は日本人の枠内で発言してしまっている。

 だから、僕が発するべきなのは、何かもっと別の言葉なのだ。

韓国人による恥韓論 (扶桑社新書)

韓国人による恥韓論 (扶桑社新書)