青空研究室

三ツ野陽介ブログ

[読書感想文]正義の武力行使はあるか〜最上敏樹著『人道的介入』

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 戦争と平和について考えていたら、以前、最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』という本を読んだことがあるのを思い出したので、付箋を貼ったところを中心に、ざっと読み直してみました。

 「人道的介入」はおもに、国連の平和維持活動にどう協力すべきかという問題に関わるものであり、現在、議論が活発な「集団的自衛権」の問題とは、区別されるべきではありますが。
 ちょっと内容を要約してみます(以下ただの要約、読書ノートです。引用集とも言う)。

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

 

 まず著者は、「絶対平和主義」から距離を置いて、「無辜の人々がなぶり殺しにされているときに、私たちは何もしなくてもよいか」と問います(viii)。

 例えば、ある国の内部において、虐殺のような深刻な人権侵害が起きている場合、たとえ、その国の主権を無視することになっても、その虐殺を止めるべく、「人道的介入」をおこなわなければならないのではないか。

 しかし、どうやって?

  ここで、「人道的介入」を考える際の重要な事例となるのは、ユーゴスラヴィア紛争です。

暴発してしまったことが明らかになった場合、誰かがそれをやめさせなければならないが、かといって、誰もがそれを止めるために進んでわが身をさらすわけではない、ということである。ボスニアの場合も、残虐行為が知られ始めてから、犠牲者たちを救うべきだとする国際世論が高まった。だが、このときもそののちも、地上軍を派遣してでも犠牲者たちを救おうという国が現れたことはない。(p.76)

コソヴォでは、空爆開始後しばらくの間、アルバニア系住民に対する迫害が減るどころか逆に増え、難民あるいは国内避難民化する人の数が一気に増えた。(……)コソヴォに関する限り、三ヶ月間ではあったが、介入によって救援されるべき人間たちが、むしろ苦難をしいられたことになる。(pp.97-98)

空爆開始直前、一九九九年三月一七日報告書でも、アルバニア人に対する殺害あるいは迫害の事例と、セルビア人に対するそれの事例とが、ほとんど交互に登場する。/とすると、「人道的介入」は、セルビア人アルバニア人両方に対する攻撃でなければならない。しかし実際にはそうはならなかったし、また現実にもそうした精密な仕分けなど不可能だろう。(pp.101-102)

ユーゴ空爆を批判する意見の中には、コソヴォアルバニア人を守るのが目的だというならばなぜ地上軍を投入しなかったのかという批判論もあった。これは必ずしも好戦的な観点から言っているのではなく、むしろ危険を避けて遠距離あるいは高空から(……)爆撃するというやり方が、本当に人道的な措置の名に値するのかという、並はずれて道義的な要求によるものである。(pp.124-125)

 このようにユーゴスラヴィア紛争における軍事介入は、人道的介入の成功例とは呼べないものでした。

 では、人道的介入は、どのようなものであるべきなのか。

 人道的介入は是か非かという問題が、しばしば、人権をとるか国家主権をとるかという選択に置き換えられる(……)そういう選択肢を示されたら、多くの人間 は「人権」と答えるだろう。(……)問題は、いまの設問に答えて「人権」を選んだ場合、なかば自動的に武力行使原則の緩和をも選択する結果になることである。これはおかしい。「人権」を選択することの結果として切り捨てられる「国家主権」とは、まずもって、その国に対する他国の不介入義務である。 (pp.122-123)

〔カントの〕『永遠平和のために』の第五予備条項は「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に暴力をもって介入してはならない」と明言している(p.134)

 ある国の内部で生じている暴力の犠牲者の人権を守ることが、その国の主権を尊重することと、両立できないというこの問題を、どのようにクリアすればよいのか。そこで著者は、「犠牲者へのアクセス権」という考え方を紹介しています。

「犠牲者へのアクセス権」、すなわち人道的救援活動をおこなう人々は犠牲者のもとに駆けつけ、人道的救援物資を犠牲者のもとに届ける権利がある、とする新しい考え方(p.152)

もし人道的介入の「権利」なるものがあるとすれば、それは、何にもましてこの「犠牲者へのアクセス権」なのであるまいか。それは一部で主張されている「個別国家が独自の判断で他国に武力介入する権利」という意味合いとは、かなり異なる。(……)「加害者をたたく」のではなく「犠牲者を救う」ものである点では、より本質的である。(p.154)

 「加害者をたたく」ための介入ではなく、「犠牲者を救う」ための介入であれば、それは、必ずしも国家による軍事介入ではなく、市民による非暴力的な介入というかたちをとることもできます。

〔とはいえ〕市民的・非暴力的介入であっても、危険な環境の中で活動することはしばしばあるし、その安全をどう確保するかも考えねばならなくなる。(p.201)

 このような条件のなかで、日本人はどのように考え、行動すればよいのか。

無辜の人々が数多く迫害され、殺される現実がある場合に、日本人だけがそれに無関係であるということはできない(p.201)

憲法があるために「危険な場所には人員を派遣できない」、「危険な活動には従事させられない」といった不満がもらされる。だが本当にそうだろうか。禁止されているのは日本が他の国々や人々を危険な目に遭わせることであって、他者の苦しみのために日本(人)が危険な目に逢うことではない。むしろ、そういう危険を引き受けることこそが、現代の複雑な平和に応えるということであろう。(p.203)

 以上、乱暴に引用を連ねただけですが。

 憲法九条の条文は維持すべきと(今でも)考える派である僕が、しかし「絶対平和主義」の立場は取らなくなるきっかけになった本だったので、ざっと紹介してみました。

 例えば、われわれは、北朝鮮における人権侵害の状況を見過ごしたまま、北朝鮮という国家の主権を尊重すべきなのかどうか(核保有などの要因もあって、尊重せざるをえない状況にあるわけですが)。そこで、「犠牲者へのアクセス権」という概念は有効なのか、という観点からも、この問題を考えることができると思う(学部生並の感想)。