青空研究室

三ツ野陽介ブログ

歴史における美しさについて〜『風立ちぬ』(スタジオジブリ)

 『風立ちぬ』がもうDVDになっているようなので、見直してみた。

(以下、物語の核心にかかわるネタバレは無いと思うけど、ナーバスな人はスルー推奨)

 あらためて感じるのは、主人公・二郎の「美」に対する異様なこだわりである。悪く言えば、二郎は「美しいもの」以外のことに関して、ほとんど思考停止しており、何も考えてないバカなのかな?と疑いたくなるような場面もある。

 この映画に出てくる美しいものの代表は、美しい飛行機と、美しいヒロイン菜穂子である。そして二郎はその両方に関して、美しさに目がくらんで、道徳的に責められるような選択をおこなっている。

  とりわけ以下のセリフのやり取りにおいては、はっきりと道徳的な選択を迫られたにもかかわらず、その選択から目を背けて、美しさに目をくらませている。

カプローニ>

君はピラミッドのある世界とピラミッドのない世界と、どちらが好きかね。空を飛びたいという人類の夢は呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ。それでも私はピラミッドのある世界を選んだ。君はどちらを選ぶね?

 二郎>

僕は美しい飛行機を作りたいと思っています。

 二郎は何も迷うことなく、すがすがしい顔で、そう答えている。

 ここで言うピラミッドとは、階級社会、格差社会の象徴だろう。「ピラミッドのある世界」とは、資本主義と帝国主義が結託した世界であり、お腹を空かせた子供に食べ物を与えるよりも、兵器を作ることに富を投じるような世界だ。そのような世界でだけ、二郎の飛行機は存在できる。

 道徳的に考えれば、それよりは「ピラミッドのない世界」、つまり平等な世界のほうが選択されるべきなのだが、二郎は何も考えずに、「美しい飛行機を作りたい」という夢を、バカのひとつ覚えのように繰り返すだけである。

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 この世界には、真・善・美という三つの理想的価値がある。

 歴史認識においては、まず「真」が問題にされる。つまり、過去にいったい何があったのか。邪馬台国はどこにあったのか。聖徳太子は実在したのか。坂本龍馬を暗殺したのは誰なのか。このような仕方で問われるのが「真」の問題である。

 しかし一方で、歴史はしばしば善悪の基準からも評価の対象になる。例えば、戦前の日本は悪なのか。アメリカによる原爆投下は善だったのか。このように問われるのが「善」の問題である。日本と隣国のあいだの歴史問題においては、しばしば、真偽の問題と、善悪の問題がごっちゃになっている。

 最後の「美」に関しては、歴史においてあまり問題にされることがないように思えるけれど、実際には僕らが歴史に触れる際の、重要なファクターになっている。例えば、鎌倉時代の『平家物語』は、滅亡した平氏を「悪」として伝えることよりも、「美」として謳いあげることを選んだ。

 別の例で言えば、もし、織田信長を道徳的に評価するとしたら、様々な殺戮をおこなったとんでもない奴だ、という評価になるだろうが、普通、僕らは信長についてそういう見方はしない。織田信長は英雄的な革命児である。要するにカッコいい、という美的評価になるのだ。

 豊臣秀吉朝鮮出兵についても、耄碌して無謀なことをやったなあという評価がある一方で、大陸に大軍を送り込んで、明まで手中に収めようとしていたなんて、秀吉らしい壮大な夢だなあという美的評価もあるだろう。

 僕らはふつう、秀吉の朝鮮侵略は道徳的に間違った行為だったから、これについて中国と韓国に謝罪しなければならない、とは考えない。あまりに昔のことは、道徳的評価の対象にしないのだ。しかし、韓国の歴史観では秀吉の侵略は、道徳的な評価対象である。

 日本人の歴史認識においてはしばしば美的価値が優勢になるのだが、中国や韓国の儒教的な歴史認識においては、善悪が重視される傾向にあるのだと思う。韓国史における二人の英雄、李舜臣安重根は、いずれも美的な英雄というよりは、祖国防衛という韓国の道徳教育における最高善を担う英雄である。

  ところで、『風立ちぬ』の公開にあたって、韓国から、この映画の歴史認識について、批判の声が上がった。それは道徳的な批判だったのだが、結局、宮崎駿監督のそれに対する応答を要約すると、「僕は美しい映画を作りたいと思っています」ということだったのだと思う。

 二郎は美しい飛行機を作り、菜穂子は美しく着飾り、二人はその時代を美しく生きた。そのような美しさも、やはり、善悪の評価対象にしなければならないのだろうか。

風立ちぬ [DVD]

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