青空研究室

三ツ野陽介ブログ

考え方は人それぞれという考えは共有されうるか?例えば韓国と。

 言葉というものは不確かなものであるから、人との出会いとか、モノの手触りといった具体的なものから出発しよう。これが、東浩紀さんの去年けっこう話題になったらしい本、『弱いつながり 検索ワードを探す旅』の、おもな主張だった。そういった理由からこの本のなかでは「観光」が勧められる。

 日韓問題を扱った章においても、東さんはやはり「言葉の解釈は無限に積み上げることができるので、被害者はいくらでも話をおおげさにできるし、逆に加害者はいくらでも屁理屈で逃げることができる。言葉だけでは争いは止まらない」と前置きしたうえで、以下のように続けている。

だからぼくは日韓関係については、もはや正しい歴史認識を共有すべきではなく、むしろ「歴史認識を共有できないという認識を共有すべき」だと考えています。従軍慰安婦問題に限らず、さまざまな事件について、韓国には韓国の、日本には日本の言い分があって、それぞれの国で過激な主張がある。そこであるひとつの「正しい」歴史認識を強引に共有しようとしたら、ヘタすると戦争になる。むろん、真実はひとつです。けれども言葉ではそこには到達できない。だとすれば、「真実を探さない」ことが合理的であることもありえます。

 僕もまた、「日韓は、歴史認識を共有できないという認識を共有すべき」というこの考えに同意する。
 しかし、僕が東さんの意見に同意かどうかはどうでもよい話で、重要なのは、韓国の人たちがそれに同意するかどうかだ。
 そして、ほとんどの韓国人は、「歴史認識は、国によってそれぞれ異なる」というこの考えを、受け入れないだろうと思う。韓国の一般的な新聞ジャーナリズムであれば、そのような考えに対して「歪曲」「妄言」という、いつものレッテルを貼るだろう。

 日韓問題というのは、日本の歴史認識と、韓国の歴史認識の衝突ではなくて、「歴史認識は他国と共有できない」という、多くの日本人が多かれ少なかれ身につけている姿勢と、「正しい韓国の歴史認識を、日本は絶対に共有すべき」という、多くの韓国人が多かれ少なかれ身につけている姿勢との対立なのだ。

 例えば、安倍首相は以前、「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と答弁し、この発言は韓国でも「妄言」としておおいに叩かれた。

 しかし、ここで注意したいのは、安倍さんは別に「戦前の日本の領土拡張は侵略ではなかった」という歴史認識を、他国も共有せよと主張したわけではないという点である。「見方はそれぞれ」と言っただけだ。僕は安部首相と歴史認識を共有しないけど、この相対主義的な姿勢を共有していることは否定しない。

 韓国では、さんざん「極右」の極悪政治家として叩かれる安倍さんであるが、正直言って僕には、安倍さんが極端に過激な右翼であるとまでは、どうしても思えない。ヒトラーになぞらえたりするのは、明らかに過大評価であろうと思う。

 もちろん、相対主義は必ずしも穏当なものではなく、過激な相対主義というものもありうるのだけれど。

 AとBという二つの立場が対立しているときに、「考え方はそれぞれだよね」と言えば、その対立を調停できそうな気がするけれど、これが、「正義はただひとつ」という立場と「考え方はそれぞれ」という立場との対立だった場合には、第三の立場として「考え方はそれぞれ」は選択できない。

 そんなところにも、日韓関係の難しさがあるのだと思う。