生き方の問題としての「ガラケーかスマホか」
前回に引き続き「生き方の問題」について考えてみる。
本当は、「ずーーーっと童貞の人は風俗に行って童貞を捨てるべきなのか」という問題について考えようかと思ったのだが、そんなことばかり書いていると、僕がやっている哲学というのは、そういうことを考える学問なのかと思われても困るので、「ずっとガラケーの人はスマホにすべきなのか」という問題を考えることにする(これも違う気がするけど)。
いまだにガラケーを使っている人を見かけると、「まだガラケー使ってるの?」「そろそろスマホにしなよ」と言いたくなる人は多いだろうし、僕も言う。そう言うときのスマホ派は、どこか上から目線である。
これに対して、「いや、電話とメールができれば十分だから、スマホとか要らないし」と抵抗するガラケー派の顔もまた、何やら誇らしげである。世間の俗物どもがスマホをベタベタ触っているなか、静かにガラケーを折りたたむ孤高の俺カッコイイ、といったところだろうか。
ガラケーのままでいくか、スマホにするかということは、ひとつの生き方の問題であり、些細な問題であるように見えて、本人はその自分の生き方に妙なプライドを感じていたりするものだ。
「LINEとかホント便利だからさ、早くスマホにしなよ」というスマホ派の主張は、「別にメールでいいじゃん。メールとどこが違うのさ」というガラケー派をなかなか説得することができない。
これが、「いつまで独身でいるの?そろそろ結婚しなよ」という話であれば、「うるせえ、したくてもできないんだよ」という反論も可能なのだが、それに比べるとガラケーからスマホへの変更は、とても簡単なはずである。
しかし、そんな簡単なことでも、人に生き方の変更を迫るような主張をし、相手を説得することは本当に難しい。
ここでスマホ派とガラケー派が、非対称的な関係にあることに注目したい。
非対称と言うのは、スマホ派が(初めて買った携帯がスマホというのでなければ)ガラケー生活とスマホ生活の両方を知っているのに対して、ガラケー派はガラケー生活しか知らないということである。
これに対して、iPhone派とAndroid派の論争の場合には、両方を使いこんでいる人は少ないから、お互いに相手の実態を知らないで主張しているという意味で、両者の立場は対称的なのである。
つまり、スマホ派が既知の生き方(ガラケーライフ)を否定しているのに対して、ガラケー派は未知の生き方(スマホライフ)を否定しているという違いがある。
人はなぜ未知のものを否定するのだろうか。
数年前に、「なんで勝手に地デジに変えるんだよ。テレビ買い換えなきゃいけないじゃん」と散々文句を言っていた人たちも、今となってはもう、アナログ画質なんて耐えられないというのが本音だろう。
そもそも今日のガラケー派だって、一〇年以上前には「携帯なんていらないよ」と豪語しながら、今ではそれ無しには生きられなくなった経験を持っているはずなのである。
生きるということは、昨日まで知らなかったことを、今日、新しく知ることなのではないだろうか。今日までの自分とは違う自分に、明日なることではないのだろうか。
もちろん、世の中には、知らないほうが良いこともある。
例えば、童貞が風俗に行った場合、それによって魔法が使えなくなるという弊害もあるわけだし、ガラケーにこだわる人も、もしかしたら、携帯が無かった時代を懐かしみ、携帯などというものを知ってしまったこと自体を後悔しているのかもしれない。
だから、変化しないこと、いつまでも同じ自分であり続けるということもまた、生きるということの、もう一つの側面なのだろう。
でも、いくら自分が変わりたくなくても、時間とともに周りが変わっていってしまうし、そうしているうちにいつの間に、自分も変わってしまうんだ。