青空研究室

三ツ野陽介ブログ

人生の意味について僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの

「人生の意味」とはどんな意味か

f:id:ymitsuno:20140806231435j:plain

 「自分の人生に意味はあるのか?」なんて考えたくなったときには、まずは「人生」の意味でなく、「人生の意味」の意味について考えなくちゃいけない。

 つまり、「人生に意味はあるか?」という問いに答えるためには、まずは、この問題文の意味を明らかにすることが必要だってことだ。

 「人生の意味」という言葉を使って、いったい僕たちは何を言おうとしているのだろうか。

 

生きる意味とは、生きる目的のこと

 「意味のある人生」とはどんなものなのか、なかなか想像しづらいけれど、「意味のない人生」についてなら、僕たちはよく知っている。自分の人生が無意味だと感じることは、誰にだってあるだろうから。

 それでは僕らはどんなときに「自分の人生は無意味だ」とつぶやくのか。それは「何のために生きているのかわからない」ときだと言っても、そんなに的はずれでないだろう。逆に言うと、「意味のある人生」とは、「何かのために生きている人生」であると、とりあえずは言える。要するに、生きる意味とは、生きる目的のことなのだ。

 確かに僕たちは、様々な目的を抱きながら、人生を過ごしている。

 勉強をするのは良い学校に入るため、良い学校に入るのは良い会社に入るため、良い会社に入るのは豊かで安定した収入を得るため、豊かな収入を得るのは子供の将来や安楽な老後のため。

 そんなふうに僕たちは、後に続く目的によって「今ここ」における生を正当化しながら生きているのだ。

 それが例えば、せっかく良い会社に入ったのに、途中でクビになって路頭にさまようハメになったりすると、この目的の連関はぶった切られて、「今まで頑張ってきた意味がなかった」ということになってしまう。

 しかし、本当に考えるべきことは、運良くすべてが狙い通りにいったとして、人生の最後に手に入る、子孫の繁栄やら安楽な老後は、何のためにあるのだろうか、ということだ。

 どうせ最後は死んでしまうのなら、何をやったって意味なんて無いんじゃないか。

人生の意味と最終目的

 後に続く目的が、「今ここ」での行為の意味になるならば、人生におけるすべての行為に意味を与える、最終的な目的は結局、何なのだろうか。

 例えば、あるコンピューターゲームにおいて、モンスターを倒す、武器を買う、ダンジョンで宝箱を探すなど、ゲーム内におけるすべての行為が、「ラスボスを倒すため」という最終目的に向けられている場合、ここで禁じられているのは、その最終目的の意味を問うことである。

 そもそも、この俺が、何のためにラスボスを倒さなくちゃいけないんだ?という問いを発したとき、僕たちはもうそのゲームに飽きているのだ。

 これは別にゲームに限った話ではない。この現実世界にラスボスのような存在がいたとして、僕やあなたが勇者となって、ラスボスを倒し、世界に平和をもたらしたとしても、そんなことに意味があるのか?という問いは、やはり有効なのである。

 結局、いつか人類が滅びるのであれば、長い宇宙の歴史から見て、どんな偉業にも意味は無いのじゃないか。

 そのような問いにストップをかけるために宗教があったのだが、僕たちの多くはもう、信仰に頼ることができない。

「真剣であることの避けがたさ」と「疑念をもつことの免れがたさ」

 アメリカの哲学者トマス・ネーゲルは、『コウモリであるとはどのようなことであるか』において、人間が「人生の無意味さ」を感じてしまう仕組みを、「真剣であることの避けがたさ」と「疑念をもつことの免れがたさ」の衝突として描いている。

 「真剣であることの避けがたさ」とは、つまり、世の中のために社会問題を解決するという目的を抱いてもいいし、ただ愛する家族のために生きるという目的を持ってもいい、人は何らかの目的に対して真剣になることによって、自分の生に意味を持たせようとする、どうしてもマジにならざるをえないということである。

 その一方で、「そんなことにマジになっちゃってる自分」を一歩引いて見つめる、もう一人の自分がいて、「これって意味があるのか?」としょっちゅう問いかけてくる。そういう疑念を持つことも免れがたいのである。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

バカとリア充

 だいたいこういう問題について、提示される解決策は決まっている。

 ひとつは、リアルから一歩引いて意味を問おうとするもう一人の自分など、捨ててしまえばいいというものである。

 ネーゲルの考えでは、例えばネズミの生は無意味ではない。なぜなら、「彼らには自分が単なるネズミにすぎないことを知るのに必要な自己意識と自己超越の能力が欠けているからである」。つまり、ネズミには、マジになっちゃってる自分を一歩引いて見つめる、もう一人の自分が欠けているということである。

 要するに、僕たちも人生の無意味さから逃れたいのであれば、ネズミのようになればいい、つまり、バカになればいいというのが、解決策のひとつである。

 そもそも、幸福な人は「自分の人生には意味がある」という言い方で幸せを表現しない。「人生が充実している」という言い方をするのだ。充実したリアルを送っている人は、そもそも「人生の意味」など問わないものである。リア充がどこか「バカ」っぽく見える理由もここにある。

 世にあふれる自己啓発的な成功本が、どこか薄っぺらな印象を与えるのも、「そうやって成功することに意味があるのか」という問いにフタをしているからなのである。

シラケつつノリ、ノリつつシラケる

 ネーゲルの勧めるもうひとつの道は、上の解決策とは少し違う。

 いま生きているリアルを俯瞰して眺める、もう一人の自分を持ってしまうことが、人間の本性であるならば、「人生の無意味さ」こそが、最も人間的なのであり、これを手放す理由はない。「われわれは自分の無意味な人生にアイロニーをもって取り組めばよい」と、ネーゲルは言う。

 ここで言う「アイロニー」とは、むかし流行った言い方で言えば、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ということになるだろうか。「自分の人生に意味がある」と信じるモードと、「でも結局は無意味なんじゃないか」と疑うモードの二つを、同時に実行すること。あるいは、無意味であると知りつつ、あえて意味があるかのように振る舞うこと。

 バカになる戦略も、ノリつつシラケる戦略も、ありきたりと言えば、ありきたりではある。人はそんな便利にバカにはなれないし、バカでも風邪をひく。シラケつつノルなんて、言われなくても普段から僕たちが仕方なくやっていることなのだ。

やや気恥ずかしい結論のようなもの

 結局、「人生の意味」は、僕たちがどこで問いをやめるかということにかかっている。

 例えば、ある兵士が、祖国のために命を捨てる覚悟で戦死する。そのとき、彼の人生は、「祖国を守るため」という意味をもって完結し、それ以上の問いは停止される。「祖国を守るのは何のためか?そんなことに意味があるのか?」とは、もはや問われないのである。

 僕たちの時間は有限だから、それ以上、問うことをやめた時点での答えが、人生の意味になり、具体的な行動になる。

 僕たちは、目的がなければ行動を起こせない。しかしその一方で、目的を問うのをどこかでやめなければ、行動を起こせないのである。

 そして、僕たちは何もしないでじっとしていることができないから、ただ生きているだけで、意味を生み出してしまうのだ。