反戦平和に憧れて
集団的自衛権反対を訴えて焼身自殺を図った人について、「そこまでして国民に訴えたいことがあったのか!その声に耳を傾けなければ!」などと思えず、「そんなことやる前にちょっと頭冷やそうよ」と普通にドン引きしてしまう自分は、やはりもう左翼ではないのだろうか。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
焼身自殺で訴えなければならないような正義は、この世にはないよ。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
左翼って「戦争」には反対だけど、「闘争」は大好きな、好戦的な人たちなんですよね。平和を愛してるんじゃなくて、「戦争反対」っていう闘いを愛してるんだ。だから、その敵役として安倍さんを悪の独裁者みたいに過大評価するんだけど、そんなたいしたもんじゃないだろう。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
中二病だった頃の、僕の願望は、とりあえず、まず1999年にノストラダムス的な世界戦争が起きてほしい、ということだった。
そういう戦争が起きたら、兵士として戦いたかったのか、というと、そんなことはなく、「反戦運動」というものに憧れていた。1999年と言えば僕は大学生になっているはずだから、そうなったら憧れの学生運動みたいなことができるかもしれない、などと思っていた。
「ああ、僕も平和のために闘いたいなあ。そのためにも戦争起きないかな」というのが、僕が中二のときに考えていたことである。
大人でも、基本的に左翼の人たちは、「軍靴の足音」が聞こえてくると、元気になる。反戦平和という分かりやすい正義のために闘うことができるからだ。
しかし、平和ってそんなに分かりやすいだろうか。
ある政治的判断に対して、反対や賛成を言う以前に、僕はただ「分からない」と口ごもってしまう。
そして、自信満々に大声で政治的な主張をする人を、不審な目で見てしまう。この人たちは、本当に戦争や平和を分かっているんだろうか。
それにしても、いったいいつから僕は、こんなシニシズムに冒されてしまったのだろう。