青空研究室

三ツ野陽介ブログ

「美しくなる」とは「自由になる」こと?〜雨宮まみ『女の子よ銃を取れ』

f:id:ymitsuno:20140705205316j:plain

 雨宮まみさんという物書きがいて、自伝的エッセイ集『女子をこじらせて』が、たいそう面白かったので、その次に出た『ずっと独身でいるつもり?』も読み、いちばん最近出た『女の子よ銃を取れ』という本も読んだのだが。

  僕もやはり、独身三〇代女子の心中には興味があるわけで、『ずっと独身でいるつもり?』はなかなか面白く読めたのだが、今回の『女の子よ銃を取れ』はファッションの話が中心で、さすがに女性読者向けの本だったかな、という感想は持った。

 まあしかし、確かに男子目線で一番面白いのは、女子をこじらせてAVライターとして開花していく半生を綴った一冊目の『女子をこじらせて』なのだが、今日は読んだばかりの『女の子よ銃を取れ』について書く。

ずっと独身でいるつもり?

ずっと独身でいるつもり?

 
女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

  雨宮まみさんという人は、単純にフェミニストとして括れる人ではないのだろうが、やはり男としては、何だか自分が責められているような気分にさせられる書き手ではある。

  雨宮さんは、世の女の子たちに対して、ある抑圧と戦うように促しているのだが、その抑圧がいかなるものなのか、少し分かりにくい。

 素朴なフェミニズムであれば、社会が女性に対して押しつけてくる「女らしさ」という価値観と戦い、返す刀で男性の「男らしさ」にも斬りかかりつつ、そのようなジェンダーからの解放を謳うだろう。

 しかし、雨宮さんが戦っている抑圧というものは、女らしさの押しつけというのとは、少し違う。もちろんこの本は、「「女は美しくあるべきだ」という呪いのような圧力(p.8)」という言い方をしたり、「ああ、私はまた、日本の『かわいい』至上主義の中で暮らしていかなきゃいけないんだ(p,67)」と嘆いたりもしているのだが、その一方でこの日本には、美しくするな、可愛くするなという圧力もあるのだという。

美人ではない人間がお洒落をすれば「ブスのくせに調子に乗って」と笑われ、お洒落をしなければ「ブスのくせに努力する気もないのか」とあきれられる。(p.19)

 あるいは高校生のときに、親戚のおじさんに以下のように言われたときの衝撃。

「ブスやけん女っぽい服は似合わん」「嫁には行けんやろうし、手に職つけたほうがよかろうや」(p.130)

 かくして、 ここでの解放闘争は、お前は女らしい格好をするなという圧力と、お前も女らしい格好をしろという圧力の、両方と戦わなければならないことになる。

 では、そのような抑圧の対極に置かれる、自由とはどのようなものなのか。

「美しくなりたい」と思う気持ちは、私の中では「自由になりたい」と、同義です。社会の圧力から、常識から、偏見から、自分の劣等感から、思い込みから、自由になりたい。いつでもどこでも、これが自分自身だと、全身でそう言いたい。(p.9)

 普通に考えると、「美しくなる」ということは、他人から美しいと承認されることだと思われるのだが、ここでは、他人の視線から解放されて自分自身になることこそが、美しさなのだとされる。

 著者インタビューにもあるように( ディズニーまで、こじらせているのかと! - 週刊はてなブログ)、そのような自由は、雪山に引きこもって自分だけの氷の城を立て、そこで、ありのままの自分を肯定する、雪の女王になることに似ている。

 そのような独我論的自由が、本当に自由と言えるのだろうか。人の視線なしに成立する美しさというものが、本当にあるのだろうか。

 あるいは、女子を氷の城にまで追い詰めてしまう、自らの男性としての視線について、省みるべきなのだろうか。

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ