生き方の問題について議論することは可能だろうか
世の中には「生き方の問題」というものがあり、それについては議論することが難しい。
例えば、「女性は自立して生きるべきだ」という意見と、「女性は家庭に入って子供を産み育てるべきだ」という意見が対立しているとする。
この問題に当事者性を持たない男性が、他人事として議論することは可能だろう。
しかし、「自立して生きるべき」あるいは「家庭を守るべき」というポリシーを女性が持つ場合、その女性自身が、実際にそのようなポリシーに則った生き方をしていることが多いだろうから、それに関する議論は自らの「生き方」の正当性を賭けた戦いになってしまう。この議論に負ければ、自分の人生が否定されることになる(『負け犬の遠吠え』っていうのは、負けを認めたうえで吠えるというところが新しかったわけだけど)。
人間は、まずポリシーを持ち、その後、それに従った生き方を選択するのではなく、なんとなく身につけてしまった生き方というものがまずあり、その後、その生き方を正当化するためのポリシーを後付けすることのほうが、ずっと多いのではないか。
マルクス風に言えば、「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する」ということになる。
喫煙派と嫌煙派のあいだの論争や、入れ墨の是非をめぐる論争などのトピックは、意識によって変更可能な「ポリシー」の問題ではなく、簡単に変えることができない「生き方」の問題なのである
例えば、「草食系男子」という生き方があり、そういう生き方をしている本人は、「女もカネも地位もいらない」というポリシーを持っているわけである。
しかし彼は本当は、あらかじめポリシーを持っていて「草食系男子」という生き方を選択したわけではなく、「女にもカネにも地位にも縁が無い」という生き方がまずあって、その生き方を正当化するために、「そんなものは別に重要じゃない」というポリシーを作り出したのである。
それに対して、肉食派が「そんな生き方、本当に楽しいか?」と議論をふっかけたとしても、草食系という生き方は、意識を変えれば変更できるようなものではないから、「別に楽しいし!」と抵抗を試みざるをえない。
「そんな生き方は間違っている」と主張するほうも、自分が絶対に正しいと確信しているのではなく、「確かにあなたの生き方は正しい」と相手に認めさせたいだけという場合が多い。
結局のところ、女を紹介してくれるつもりでもないなら、他人の生き方についてああだこうだ言うな、という話になるのかもしれない。