青空研究室

三ツ野陽介ブログ

「こじらせ」と「俺萌え」〜本田透『喪男の哲学史』

 私は思います。日夜想像します。人の視線や、世間の常識や、善悪の基準すら関係のない自由な世界で、どんなものにもとらわれず、好きな装いをし、気持ち良く深い呼吸をしている自分を。(『女の子よ銃を取れ』pp.6-7)

 昨日のエントリーで紹介した雨宮まみさんの本で、上のような文章を読んだとき、この感覚は「俺萌え」に近いな、と思った。

 「俺萌え」というのは、本田透さんが『喪男の哲学史』において、ニーチェの「超人」思想を解説するときに用いた言葉である。

 本田透さんは、十年ほど前の「電車男ブーム」のとき、オタクも恋愛すべしという風潮に異を唱え、二次元世界の優位を説き『電波男』などの著作を書いて一部で話題になった人である。

電波男 (講談社文庫)

電波男 (講談社文庫)

 

  男がオタク趣味に走るせいで女が結婚できないという『負け犬の遠吠え』の酒井順子さんの主張に対して、当時、ケンカを売ったりもしていたのではなかったかな、確か。

  そんな本田透さんが書いた本が『喪男の哲学史』で、これは早稲田の哲学科出身の本田透さんが、モテと非モテを対立軸に、哲学史を再解釈した怪著である。喪男(もだん)とは「モテない男」という意味。要するに哲学者とは、非モテをこじらせた人たちなのだという本である。

 当時、僕はとても面白く読んだのだが、この本はさほど話題にならなかった。

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 例えば、この本はプラトンの思想を「イデア界』という想像の世界すなわち『二次元』世界こそが、目の前の『現実』=『三次元』よりも価値のある世界なのだ!」(p.48)などと冗談か本気か分からない調子で解釈してみせ、「プラトンは、アキバ系というか二次元オタクの走りなのです」(p.56)と断言する。「[プラトンは]死ぬまで童貞だったと言われています(p.59)」

 そのようなモテない男であったプラトンに対して、現実の世界の優位を説いたアリストテレスは、モテ側の哲学者とされる(表紙のイラストはアキバ系プラトンと、ちょいモテオヤジアリストテレス)。

 その後も、ヘーゲル哲学とキルケゴールの哲学が、以下のように対比されたりする。

ヘーゲル哲学]セカイ系=世界(三次元)と個人(二次元)とが「彼女(絶対精神)」によって統一される=セカイ主義

キルケゴール哲学]キモイ系=三次元と二次元が「喪男への意志」によって分裂し続ける=実存主義 (p.149)

  面白いので、ついつい長く紹介してしまっている。

 そろそろニーチェの超人の話に移ろう。本田透さんは、ニーチェの超人思想を以下のように解釈して見せた。

ニーチェは、ただ「喪男喪男のまま生きろ」と言い放っただけでなく、自分なりに解決方法を考えました。(……)ニーチェは「超人」という模範を作りました。超人は、ニーチェにとっての萌えキャラです。(……)とはいえニーチェは二次元世界を否定していますので、三次元の世界で女の力に頼らず自己救済しなければならないということになります。(p.181)

ああ。神は死んだ。恋愛も俺を相手にしない。風俗はおっかない。/かくなる上は「俺萌え」だーっ!/超人とは、「この世界をたった一つの舞台として、自分自身に萌え続けろ」という俺萌え宣言だったのです。超人は「自分自身」の「価値観」を自分で作り出し、他人の価値観など意に介さずに生きていく、真に自立した人間です。(p.183)

  僕たちが世間の価値観に縛られるのは、結局のところ、他者からの承認を求めるからである。要するにモテるためだ。しかし、モテということを尺度にしなければ、男子はもっと自由に生きられるのではないか。このような「俺萌え」の思想は、雨宮まみさんが女子の自由について言っていることに似ている。

 ただ、人は他者から承認されたいという欲求、モテたいという欲求から、そんなに自由になれるのだろうか、誰もが超人になれるだろうか、という疑問は依然として残るのである。

喪男の哲学史 (現代新書ピース)

喪男の哲学史 (現代新書ピース)