青空研究室

三ツ野陽介ブログ

道徳的運の問題

 STAP細胞が存在していれば小保方さんの研究不正は許されたのか。

 革命がうまく行けばそのプロセスで人命を犠牲にしても許されるのか。

 98年のワールドカップで岡田監督が勝っていればカズ、三浦カズを外したことは責められなかったのか。

 昨日のエントリーでとりあげた以上のような例は、ある行為や判断がもたらす結果いかんによって、それに対する評価が変わってしまうようなケースである。

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 この問題は、英語圏の哲学ではバーナード・ウィリアムズらによって、道徳的運 [moral luck]の問題として論じられている。

 ウィリアムズ自身が考えた事例は、画家のゴーギャンが、家族を捨ててタヒチに旅立つなんてカッコイイじゃんと思われているのは、彼がのちに偉大な画家になったからこそであって、もし大成できてなかったら、ただのクズじゃないかという話である。才能があるかなんて分からなかったし、途中で病気になってあっさり死ぬことだってありえた。うまくいくかどうかなんて運次第だったじゃないかと。

 このような道徳的運の問題については、古田徹也さんの『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』がとても分かりやすく、精緻な議論を展開している(最近の若手哲学研究者界隈では、このような「行為論」の哲学というのが流行っているのだが、一般の読書人にはあまり届いていないような……)。

   バーナード・ウィリアムズは、「行為者に対する道徳的評価に対して、幸運や不運が影響を与えてはならない」という考え方が、ヨーロッパをはじめとする多くの社会で昔から一定の支持を保ち続けてきたと指摘している。我々が誰かを「善人」や「義人」、「賢人」などと呼んで道徳的に評価するのは、彼らが幸運であったり不運であったりするからではなく、むしろ、運に左右されない偉大な精神をもつからだ、という考え方である(p.172)

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

 

 ただし、道徳的評価から「運という要素をいわば「不純物」として排除」することは、必ずしも正しいとは言えない(p.174)。殺人と殺人未遂は刑の重さが違うし、ただの交通違反と事故に繋がった交通違反もそうである。そのようなルールのある社会のなかで、僕たちは現に生きているのである。

 僕がいま考えているのは、人間は自らの「運」に対しては責任が取れないが、「運命」に対しては責任を取ろうとするのではないか、ということである。

 では、自分の行為が偶然もたらしたある結果に対して、それをただ「運」が悪かったとして片付けるケースと、それを自分と切り離せない「運命」として捉えるケース。その二つのあいだには、どのような違いがあるのだろうか。