恋する相手を自由に選ぶなんてできるのだろうか
「へえ、何を研究なさってるんですか」と初対面の人などに聞かれて、「テツガクです」と答えるのがいつも恥ずかしいのだが、「哲学?どんな?」と掘り下げられて、「ええ、まあ、自由について、とかですね」と答えるのも、さらなる羞恥プレイである。
「倫理学を研究してます」とか答えて、倫理的な人なのかと思われても困るしね。
恋愛を哲学する
ところで、自由な選択について論文に書いたりするとき、僕はよく恋愛を例に持ち出すのだ。
これが例えば、早稲田と慶応に合格したんだけど、どっちの大学に行こうか?みたいな選択の話だったら、あれこれ熟慮したうえで、「よし、こっちの大学にしよう!」という決意の瞬間があって、入学届けを出しに行くような気が、なんとなくするわけだ。
しかし、恋愛にはそういう「決意の瞬間」みたいな分岐点は、無いんじゃないか。「気づいたら、いつの間にか、あの人のことを好きになってたの」というのが恋愛だろう。
つまり、「もしもAKBの渡辺麻友と小嶋陽菜に同時に告白されたら、お前どっちと付き合う?」などと唐突に聞かれて、「うーん、迷うね。昼はまゆゆで、夜はこじはるとかじゃダメかねえ……辛い選択だよ、これは」などとじっくり考え込んだうえで行われるような選択は、恋愛とは少し違うと思うのだ。
まゆゆ可愛いなあ、こじはるセクシーだなあ、と目移りしているうちに、「でも、いつのまにか、指原のことが気になり始めてたんです、あんなやつ、全然タイプじゃなかったはずなのに」なんて言い始める。そういうのが本当の恋愛じゃないかと思うわけだ。
運命の選択
このように、恋愛にはしばしば「自らの意志にかかわらず、いつの間に」という要素がある。
「自由恋愛」と言うけど、自らの自由意志に基づいて相手を主体的に選択するというのは、「恋に落ちる」ことと本来、相容れないのである。
例えば、婚活パーティーのようなものが、「自然な出会い」ではないような気がしてしまうのは、そこでは、メニューの中から自由に選択するよう迫られるような感じがするから、というのも理由の一つだと思う。
そして恋愛に限らず、「早稲田か慶応か」のような選択をも含む人生のあらゆる選択が、実は、主体的な自由意志によって為されているのではなく、「運命を感じる」というような受動的な意志に基づいているのではないか。
それゆえ人間には自由は無いのだ、と言うよりも、人間の自由って本来そういうものなんだ、という言い方を僕は好んでいるのだけれど。