[読書感想文]正義の武力行使はあるか〜最上敏樹著『人道的介入』
戦争と平和について考えていたら、以前、最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』という本を読んだことがあるのを思い出したので、付箋を貼ったところを中心に、ざっと読み直してみました。
「人道的介入」はおもに、国連の平和維持活動にどう協力すべきかという問題に関わるものであり、現在、議論が活発な「集団的自衛権」の問題とは、区別されるべきではありますが。
ちょっと内容を要約してみます(以下ただの要約、読書ノートです。引用集とも言う)。
まず著者は、「絶対平和主義」から距離を置いて、「無辜の人々がなぶり殺しにされているときに、私たちは何もしなくてもよいか」と問います(viii)。
例えば、ある国の内部において、虐殺のような深刻な人権侵害が起きている場合、たとえ、その国の主権を無視することになっても、その虐殺を止めるべく、「人道的介入」をおこなわなければならないのではないか。
しかし、どうやって?
続きを読む反戦平和に憧れて
集団的自衛権反対を訴えて焼身自殺を図った人について、「そこまでして国民に訴えたいことがあったのか!その声に耳を傾けなければ!」などと思えず、「そんなことやる前にちょっと頭冷やそうよ」と普通にドン引きしてしまう自分は、やはりもう左翼ではないのだろうか。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
焼身自殺で訴えなければならないような正義は、この世にはないよ。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
左翼って「戦争」には反対だけど、「闘争」は大好きな、好戦的な人たちなんですよね。平和を愛してるんじゃなくて、「戦争反対」っていう闘いを愛してるんだ。だから、その敵役として安倍さんを悪の独裁者みたいに過大評価するんだけど、そんなたいしたもんじゃないだろう。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
中二病だった頃の、僕の願望は、とりあえず、まず1999年にノストラダムス的な世界戦争が起きてほしい、ということだった。
そういう戦争が起きたら、兵士として戦いたかったのか、というと、そんなことはなく、「反戦運動」というものに憧れていた。1999年と言えば僕は大学生になっているはずだから、そうなったら憧れの学生運動みたいなことができるかもしれない、などと思っていた。
「ああ、僕も平和のために闘いたいなあ。そのためにも戦争起きないかな」というのが、僕が中二のときに考えていたことである。
大人でも、基本的に左翼の人たちは、「軍靴の足音」が聞こえてくると、元気になる。反戦平和という分かりやすい正義のために闘うことができるからだ。
しかし、平和ってそんなに分かりやすいだろうか。
ある政治的判断に対して、反対や賛成を言う以前に、僕はただ「分からない」と口ごもってしまう。
そして、自信満々に大声で政治的な主張をする人を、不審な目で見てしまう。この人たちは、本当に戦争や平和を分かっているんだろうか。
それにしても、いったいいつから僕は、こんなシニシズムに冒されてしまったのだろう。
ぜんぶ男子校のせいだ!〜ヤマダ『ぜんぶ女子校のせいだ!』
ぜんぶ男子校のせいだ!|「男子校に6年間いたから、ちょっとゆがんじゃったかなと……女の子は空想の世界にしか存在しなかった」|「セーラー服おじさん」という“社会実験”から見えたものとは (1/4) - ITmedia ニュース - http://t.co/NccAUDyhzA
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
本屋で『ぜんぶ女子校のせいだ!』っていうマンガ見かけたんだよね。おっ、Kindleもあるな。|http://t.co/1q8WsMZ9PJ: ぜんぶ女子校のせいだ!: ヤマダ: 本 - http://t.co/QPH312613D
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
当時の同級生に久しぶりに会うと、「もういい歳なんだから、いい加減に全部男子校のせいにするのはやめろ!」と説教されるのだが、50過ぎて、セーラー服で街を徘徊する奇行を、男子校のせいにする人もいるんだと知り、勇気が出た。 http://t.co/jvms8gPmfN
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
男子校に通う高校生だった頃は、「ああ、俺もセーラー服着てルーズソックス履いて、センター街で援交したい!」と口走っていたが、僕も大丈夫かなあ。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
大卒で就職せずに、大学院進学する道を選んだことを後悔してるか、みたいな話になったりするが、小卒で男子校に進学したことに比べれば、後悔するようなことじゃないわ。
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
ああ、さっきのマンガって、これの人だったか。なるほど。RT @yamada_mkra: 女子校と共学校の文化の違い pic.twitter.com/pml63ePdyO
— 三ツ野陽介 (@ymitsuno) 2014, 6月 30
というわけで読んでみました。
Amazonでは、コマがデカくて、内容が少ないなんていうレビューもあるけれど、スマホのKindleで読むには都合がいいです。
このマンガの作者さんは、高校だけ女子校だったみたいですけどね。僕は、中学高校の六年間です。
僕が東大入学時に文科三類だったのは、文学青年だったという理由のほかに、「もう男ばかりはうんざり!文科三類だったら、東大でも女子がわりと多いだろ」ということが、大きな理由の一つとして、あったわけですけど。
東大っていうのはやっぱり、男女別学出身者が多くって。大学入学直後の、一番最初のクラスコンパで、居酒屋で着席するときに、みんな自然と男子テーブルと女子テーブルに完全に別れて座ってしまったのを見て、唖然としたのを覚えてますね。「男女七歳にして席を同じうせず!」って言うんでしょうか。「うわー、こんな、小学校卒業直後みたいなスタート地点から、『共学の青春』をやりなおさなきゃいけないのか!」と暗澹たる気分になりました。
男子校の思い出は色々ありますけどね。一部、男子校出身者が「いやー、男子校って、女子がいなくて気楽で楽しかったよー」などと言っているのを聞くと、「何を言っているんだ、お前は」と言ってやりたくなります。
なんか中学の頃、いつも僕の下校を校門のところで待ってくれている色白の男の子がいて、『ノストラダムスの大予言』シリーズは全部そいつから借りて読んだとか。
雑誌『ホットドッグプレス』に毎号あった、街頭の可愛い女の子が10人ぐらい載ってるページを見ながらの「おまえ、どの子がいい?」というトークで、いつも激論を交わすことができたとか。っていうのは、わりと楽しい思い出か?
最近は恐ろしいことに、Facebookで、かつての同級生の現在を簡単に知ることができるわけですが。 男子校時代には、「こいつに将来、彼女が出来るなんてことがあるんだろうか?」と思われたような人間にも、ちゃんとしたお嫁さんと可愛いお子さんがいたりして。
いったいみんなどうやって、こじらせた病から立ち直ったんでしょうか。まあ上手くやっている人だけが、Facebookで近況報告しているという面も、多分にあるんでしょうけどね。
K-POP女性MV2014年上半期個人的ベスト10
今年も半分終わろうとしているが、K-POPガールズグループの上半期ベスト10をまとめてみる。完全に、僕の主観に基づきます。
基準は曲の良さだけでなく、ミュージックビデオの出来も込みで。K-POPってそういうものだと思うから。
K-POPの素晴らしいところの一つは、YoutubeにフルバージョンのMVがアップされるところである。そして、コメント欄のほとんどは英語コメントで埋め尽くされる。K-POPが世界で人気というのは、やっぱり本当だと思う。
日本に進出したK-POPグループが、日本のレコード会社と組んで日本語曲を出すと、Youtubeには、一分程度のShortバージョンのMVしかアップされなかったりする。なんだかなーと思う。日本のアイドルでは、ハロプロ系のグループは、フルバージョンのMVをアップしているだけでなく、歌詞に英語字幕までつけている。SONYミュージックの乃木坂46のYoutube動画は、海外からのアクセスを遮断しているようだが、こういうところで将来、差が付いてくるのではないだろうか。
まあそれはそうと、やはりK-POPは、韓国語で楽しむものだ。
さて、10位から。
10位 少女時代「Mr.Mr.」
Girls' Generation 소녀시대_Mr.Mr._Music Video
本当は10位に入れるほど評価してないのだが、いきなり知らないグループ出してきてもみんな引くと思って、10位に少女時代を入れてみた。たぶん9位以降は、ほとんどの人がまったく知らないと思うので。
いまでも変わらず少女時代は、韓国でもっともポピュラーなグループだ。しかし今年の上半期は、メンバーの恋愛沙汰が次々に明らかになって、店じまいが近づいてきている雰囲気がある。
この曲は、撮影したMVのデータが破損して、リリースが延期される?というワケの分からない騒動があった。ただの話題作りだったのだろうか。摩訶不思議なK-POPワールドである(少女時代、新曲『Mr.Mr.』のMVデータが破損!カムバック日程に赤信号)。
続きを読む隣国を語ること、自国を語ること 〜シンシアリー『韓国人による 恥韓論』
いわゆる「嫌韓」、韓国批判の言説というものには二種類あって、ひとつは韓国の反日的な主張に対して反論、抗議するものであり、もうひとつは、日本と無関係に、ただ韓国社会の内部の問題について、あれこれ欠点を批判(紹介?)するものである(その他に、どうしようもないワンフレーズの罵倒や、「在日」に関するものなどもあるが、今回は論じない)。
まず第一のケース、嫌韓の言説が「反日」への反論をおこなう場合には、それは例えば、「日本はもっとちゃんと謝罪しろ」という韓国の主張に対して、「謝罪謝罪って、そろそろいい加減にしろよ」という真っ向対立する主張をぶつけるものであるからして、二つの見解は正反対のものになる。このケースは「二つの異なる意見が対立してるんだな」ということで、構図としては分かりやすい。
その一方で、韓国国内のことに関して、「実は韓国はこんなにも問題の多いトンデモ社会なんだ!」と紹介をおこなう嫌韓本やネット情報も、最近の日本には広く流布している。こちらに関して言うと、同じような言説は韓国内部にも溢れており、「韓国はこんなに問題の多い社会だ!」という嫌韓本の批判は、実は韓国内の言論と重なっているわけである。だから、両者のあいだに意見の対立はないのだ。
例えば、セウォル号の沈没事故の際、韓国のジャーナリズムにおいては、
「先進国ではありえない事故だ!韓国は三流国家だった」
という自己批判の言葉が溢れた。
(【社説】韓国は「三流国家」だった | 中央日報)
それに呼応するようにして、日本の嫌韓ジャーナリズムにおいても、
「先進国ではありえない事故だ!韓国は三流国家だった」
という隣国批判の声が聞かれた。
この場合、両者の言っている内容は同じなのだが、発言している立場が異なる。同じ言葉が、異なる立場から発せられた場合、それは大きく異なるニュアンスを持つ。つまり、セウォル号事故についての報道は、日本では「韓国って、どうしようもないなあ」というゴシップとして、消費された側面があったわけだ。
同じ言葉でも、発する立場が異なれば、その言葉が持つ効果は変わってくる。
例えばここにある男がいるとして、彼が、「俺なんてどうせブサイクだからモテない」と言ったとしよう。それを聞いた誰かが、彼に向かって「確かに。お前はブサイクだからモテないね」と同意したとする。
この場合の、「俺はブサイクだからモテない」と、「お前はブサイクだからモテない」は、発言の内容としては同じなのだが、自分でそう思っていたとしても、ひとから言われたら、頭にくるだろう。貴様、ふざけんなよ、と。そこで、「だって事実なんだから、しょうがないだろ」と開き直れるものなのかどうか。
友達なのであれば、「俺ブサイクだからさあ」と言われたら、「そんなことないよ。そのうちカノジョできるって!」と励ましてやらなければならないようなところがあるわけだ。
さて、いま書店に並んでいる嫌韓本には、センセーショナルな題名のものが確かに多いのだが、中身に関して言うと、韓国人自身が自国について日頃から嘆いているのと同じことが書いてあるだけというものが案外多い。(嫌韓の情報ソースは韓国の新聞の日本語版サイトという皮肉 - 青空研究室)。
苛烈な受験競争、若者の就職難、国民の借金体質、格差と貧困、縁故主義、政治腐敗、財閥支配などなど。こういうことは、韓国国内でも問題視され、批判の声があがっていることである
そういう意味で言うと、多くの嫌韓本は、一部をのぞけば、実はそんなに非道徳的な言説(レイシズム!)で韓国を罵っているわけではない。韓国でも指摘されているようなことが書いてあるのだ。
しかし、そういった本を日本人が読む場合、「韓流だけ見てたらわからないけど、韓国ってこんなに問題の多い社会なんだなあ、ああ、日本に生まれて良かった」というある種の娯楽として、消費されることになる。
そういう根性はゲスなものであるからして、あんなものは読むべきではない、と良心的な人であれば考えるだろう。しかし、そういうかたちであっても、隣にある国について、もっと詳しく知ろうとする欲求は、全否定されるべきものなのかどうか。一見、良心的な人ほど、実は単に隣国の姿に無関心なだけ、ということもある。
それで話は少し変わるが、シンシアリー著『韓国人による 恥韓論』という本を読んだのだ。「シンシアリー」という匿名で、アメーバブログを書いている韓国在住の韓国人が、最近出した本である。タイトルは企画段階から編集者が決めていたものだという。ちなみに次の本は、『韓国人による沈韓論』だそうな……(タイトル決定?|シンシアリーのブログ)
類書を何冊も読んできた僕からすると、内容はとくに真新しいものではなかった。
東日本大震災のときの一部韓国人のはしゃぎぶり、対馬の仏像盗難事件とそれに続くトンデモ判決、色々な「韓国起源説」、今日の韓国における売春問題、韓国人の過剰な競争意識と序列意識、面子へのこだわり、高身長へのこだわり、「スペック」至上主義、「日本の植民地支配は良かった」と語った95歳老人の撲殺事件、大韓民国臨時政府と抗日運動の虚構性、米日と中国の対立軸のあいだで「バランサー」になろうとする韓国の「勘違い外交」、などなど。
類書にもよく書いてある、定番メニューであった。
ただ、この本の特徴は、著者が韓国育ちの韓国人であるということである。もっとも、「韓国人による嫌韓本」という存在も、別に珍しくはないのだが、やはり、韓国人が日本語で、日本人に向けて韓国批判の本を出すというのは、少し特殊な立ち位置だろう。
韓国では、内政的な問題に関しては、自国への批判が活発で言論の自由があるのだが、日韓問題について自国に批判的な主張をする言論の自由は無い。
そのような中で、韓国の「反日教」を「恥ずかしい」と自己批判する、この著者の知性と勇気は、立派なものではないかと、正直、思う部分もある。
しかし、「韓国の反日ナショナリズムを批判する韓国人は立派だ」というこの言葉自体、日本人である僕の立場から発せられた時点で、どうしようもなく残念なニュアンスになる。この本の著者は、韓国人の限界を踏み越えて発言しているのに、僕は日本人の枠内で発言してしまっている。
だから、僕が発するべきなのは、何かもっと別の言葉なのだ。