青空研究室

三ツ野陽介ブログ

自由とは後悔のことなのか〜中島義道『後悔と自責の哲学』

「選択可能性と道徳的責任」と『後悔と自責の哲学』

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 前回の記事(こんな僕でも訳者になれた )では、『自由と行為の哲学』と題された共訳書のなかで、フランクファートという哲学者の「選択可能性と道徳的責任」という論文を翻訳したことがあるんですよ、という話をした。

 ところで、このフランクファートの論文は、日本の一般の哲学愛好家(そんな人たちがいるとして)には、中島義道さんの『後悔と自責の哲学』を通じて、知られているのではないかと思う。

 今回は、この中島義道さんの本を片手に、「選択可能性」とは何なのかという話を、少しだけ綴ってみたい。

後悔と自責の哲学 (河出文庫 な 24-1)

後悔と自責の哲学 (河出文庫 な 24-1)

 

選択可能性と後悔

 僕が訳文のなかで(監修の先生の意見に従って)「選択可能性」と訳したalternative possibilitiesという語を、中島義道さんは「他行為可能性」と訳している(こちらのほうが一般的)。

 いずれにせよこれは、何かやらかしたことに関して、「そうしないこともできたはずだ」という別の可能性のことである。逆に「ああするしかなかったんだ」と言えるのだとすれば、それは選択可能性が無かったということになる。

 中島義道さんはこんな書きかたをしている。

 「そうしないこともできたはずだ」という私の思いは、そのとき私が「自由であった」という思いとリンクしています。(……)自由とは、みずから実現したある過去の意図的行為に対して「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能性)という信念とともに生じてくる。(……)本書では「そうしないこともできたはずだ」という信念をーー日常の使い方より広い意味を含んでいることを承知のうえでーー「後悔」と呼びたいのです。

 選択可能性(他行為可能性)は、自由の必要条件として、哲学者たちによって議論されている概念である。中島義道さんはそれをさらに「後悔」と呼んだうえで、結局、自由とは後悔のことではないか、という主張をしているわけだ。

前向きの自由と後ろ向きの自由

 普通、僕たちが「自由」という言葉で理解しているのは、「これからの未来において、何だってできる」という意味での自由だと思う。この場合、未来というものは、僕たちの意志によって変えられるものとして捉えられている。これを、未来に向かう「前向きの自由」と名付けてみよう。

 一方で、中島義道さんが、この本でおもに問題したのは、「過ぎ去った過去において、他にやりようがあったんじゃないか」という、後ろ向きの自由である。

 「前向きの自由」と「後ろ向きの自由」の、もっとも大きく異なる点は、未来は(たぶん)変えられるのに対して、過去は今さら変えられないというところにあると思う。つまり、後ろ向きの自由は、自由と言っても今から何かできるわけではないので、ただ後悔するぐらいしかないのである。

  この本を読んだのは、何年も前だったのだが、今ぱらぱら見ていたら、面白そうなことがたくさん書いてありそうなので、もう少しこの本の話を続けたい。